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いわき芸術文化交流館アリオス|レビュー|植村朔也:小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『いわき芸術文化交流館アリオス』評

植村朔也 WebX
1998年生まれ。過去の文章に「柴幸男 劇場の制作論」「その手のもとに「劇場」はある」「質問の陥穽 あるいは、透明性の時代」など。修士論文「木下順二の民話劇」読者募集中、連絡は右記。tokyoharukani@gmail.com

 わたしは幾年かにわたり小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクに帯同し、作品に都度評を残す「保存記録」という肩書のもとその作品を見続けてきた。そういうわけで、周囲の知人から「スペノは非政治的だ(からダメだ)」という評言を聞かされたことも一度や二度ではない。そのたびごとに、こうした評価をむしろ意外に思って聞いた。かれらは2020年代前半に活躍した日本の舞台芸術作家のなかで、とりわけあからさまに政治的な存在であるとわたしは思っていたからだ。
 もっとも、そのモダニズム的な創作の手つきは、社会や政治に無頓着なオタク的「純粋芸術」、という誤解を招くには十分なものだったかもしれない。かれらの舞台の台本は、稽古場で採集される。演出の小野彩加と中澤陽が出演者に質問を投げかけ、その答えを蓄積し、コラージュして織り上げるそのテキストは、複数の不分明な主体からなる。また、そのコラージュも非常に徹底しているので、言葉は脱文脈化され、つぎはぎされ、意味を追いかけることも困難だ。そこに作家個人の政治的、社会的なメッセージが直接的に打ち出されることはない。
 一方で、「聞き取り」と呼ばれるこの集団創作の方法こそが、芸術的にも政治的にもかれらの舞台の賭け金とされてきた当のものでもある。劇作家=演出家による集権的な制作モデルに対し、水平的な協働のモデルという代案を示すこと。「聞き取り」は単独的かつ特権的な「作者」の消去、演出/出演の境界線の引き直しのための術なのだ。そしてかれらは、上演やワークショップ、プレゼンテーションや教育活動を通じて、他者に制作方法を共有することを図ってきた。そのように普及可能な方法を制作することを通じて、一過性の上演を超えて運動的であろうとしてきたともいえる。かれらの舞台の政治性を問うまなざしは、かれらの用いる形式の技術上方法上の有効性に向けられなくてはならないように思う。
 福島県いわき市の劇場こといわき芸術文化交流館アリオスが主催し、「リージョナル・シアター2025 いわきアリオス演劇部Plus」と銘打たれた新作は、劇場の名前そのまま、『いわき芸術文化交流館アリオス』という。舞台は特定の劇場、特定の地域に根ざしたものであることが建付けの上で幾重にも強調されており、それだけに集団性をめぐるかれらの方法の真価がまっすぐに問われるような公演でもあった。すなわち、地域で上演を起こし、地域に働きかけるための術として、その上演形式の有用性はどのような射程を持つのかということだ。
 これは演出補と出演を務めた古賀友樹の台詞だが、劇場にいる誰もが観客になればいいのに、という旨の汎観客論的な願いが、ユートピックな理想論を語るときのトーンで言葉にされていたのが印象的だった。誰もが役者になればいいのに、ならなんとなく聞き馴染みがある。しかし誰もが観客にという願いは、どこかおかしい言葉だ。上演において劇場に座を占める人の過半は観客であり、実のところ舞台上の役者こそが少数者だからだ。誰もが観客になると、何が嬉しいのだろうか。舞台上のまなざしが多重化し、そのことで観ることの実践が具体的な複数性を伴って平準化されるのが嬉しいのかもしれない。というのも、観る者と観られる者との非対称性、観ることの権能におけるアンバランスこそが、演出と出演の垣根を水平的にまたごうとする「聞き取り」の実践にあって、越え難く残存してしまう垂直性を生み出す当のものだからだ。
 実際、『いわき芸術文化交流館アリオス』の舞台は、観ることの実践を多重化するいくつもの設えを持つ。出演者は自分の出番でなくとも舞台上におり、円をなすように置かれた椅子にそれぞれ腰かけて、ほかの演者の出番を観ている。その円状の椅子の真ん中には出演者の一人、猪狩彰一が腰かけるための席があって、猪狩は開場時間からずっと劇場をスケッチしている。そして猪狩は上演時間中、カメラにその姿を撮影されており、その映像は舞台奥のモニターにリアルタイムで投影されている。さらに舞台の右奥には、運営コースの一人として公演に参加したスタッフの大迫健司がずっと座っていて、出演者たちを見守っている。誰もが観客になればいいのに、という願いを有言実行するがごとくに、舞台には異なる複数のレイヤーにおいていくつものまなざしが配置されるのだ。まなざしのレイアウトによる、制作の自動化と水平化。
 戯曲が舞台情報のスクリーンに投射され、発話されるテキストを目で追えるようになっていたことも、客席に座することのできるまなざしを増やすための努力、あるいは鑑賞方法の複数化(耳で聞くか目で読むか)の試みとして理解できる。そして上演されるのはコラージュされた継ぎはぎのようなテキストだ。どこで、いつ、どのように言われたか不定の、それゆえに複数の解釈や想像を促すような。作中には、おそらくは稽古場で実際に披露されていたのだろう、舞台の演出プランが出演者から発される一幕があり(川を作って飛び石を置く、ミラーボールを吊るす、映像を投影する、床から巨大なスピーカーを生やす)、そのうち半分くらいが実現されていた。出演者がここでは演出者になり、それぞれの観たいアリオスを実現しているわけだが、一方で果たされなかった演出プランが観客によって眼前に思い描かれるとき、舞台は流体のように姿を変え始める。複数のまなざしの輻輳的な持ち寄りあいによって、舞台が観る者によって変幻自在の動態となることが、ここでは目指されているに違いない。作中で引用される谷川俊太郎の組詩「アリオスに寄せて」のなかの一節、「ハコはいきて 呼吸している」という言葉も、舞台のこうしたありように響きあう。劇場には、生き生きとしてあることが期待されている。『いわき芸術文化交流館アリオス』という直球の名づけには、かれらが劇場に寄せる思いの丈を読み込んでもよいのだろう。
 さて、今回の上演において、多層化され複数化されたまなざしが織り成す動的な「いま・ここ」の出来がいくぶんユートピックにも目論まれていたことは以上のようにそれなりに明らかだとして、制作における観ることの権能のアンバランスはまた別途、技術的に取り組まれるべき問題としてある。たとえば出演者の仕事の方向づけが、特定の観者が求める(美的な)質へと一元化されていくのを防ぐこと、そのためにむしろばらばらな質を志向したり、あるいは質を求めずに済むようにしておいたりすることは、とりわけ演出者に特権的に許された仕事の一つだ。
 しかし一方で、演出者自身は舞台にどのようなまなざしを持ち寄っていたのかが、そろそろ問われても良いのかもしれない。それは、舞台上のまなざしを輻輳化する努力が、単に自己のまなざしの否定というモダニストの美学に奉仕するものにとどまるのか、複数の人々が持つ複数の視座のひらかれた具体的な共有という公共的な場づくりの技法としても理解可能なものなのかを問うことでもある。
 演出者ふたりのまなざしは、聞き取りにより採集されたテキストを編集するその仕方に顕著にあらわれる。そう、ふたりの編集する戯曲にはある特徴がある。台詞が登場人物ではなく出演者本人にあてがわれるのだ。たとえば「古賀友樹 床に川を」といったように。しかし一方で、台詞には出演者の固有名があらわれることはほとんどなく、「わたし」や「かれ」などの人称代名詞がもちいられることがもっぱらである。稽古場で発話された当初はおそらく具体的な名前が用いられていただろう台詞に、人称代名詞での上書きがされることもしばしばだ。だから戯曲の台詞に出演者名が添えられるのは、「本人役」ということではなく、発話の責任主体を明示するためのゆるやかな取り決めのようなものに思える。
 とはいえ今回の上演では、人称代名詞はさほど使われていない。代わりに代名詞への上書きが施されていたとみられるのが「いわき」という固有名だ。本作がこの地域に根ざした市民演劇として制作されていることを思えば、演出者らが加えたこの編集の意味は大きい。一歩間違えればいわきという土地の個別具体的な地域性を捨象した乱暴な編集処理と受け取られてもおかしくないこうした抽象化の手つきはしかし、名前や地名といった固有名詞に回収されない「その人」をつぶさにまなざそうという企てによるものであることが、舞台を観ているとわかる。そのようなまなざしにおいて舞台が制作されていることが、それと知れる。こうしたかれらの企てを、良心的な企て、と言っても良いのだろう。というのは、舞台を制作する演出者はかれらなりの仕方でそのまなざしに誠意を込めていること、そのことでかれらの制作の技法はひとつの倫理的な実践として枠づけられてもいることを、この機会に強調しておきたいからだ。「ここ」という代名詞への上書きによる「いわき」という固有名の消去は、土地の外から招かれてきた余所者の芸術家が、そこに住む人々の経験や記憶をわけ知り顔で上演し、収奪して作品化するという愚を免れながら、一種の対等さにもとづく関係をつくりだすための方法としてもおそらく機能しただろう。作中でたびたび仄めかされる「死者」の主題と、いわきという土地との強い結びつきを思うなら、この抽象化の手つきの倫理性は一層強く浮かび上がる。これが、小野彩加と中澤陽がその舞台に差し出しているまなざしのありよう、他者とともに生きる上でかれらなりの誠意をつくすためのひとつのやり方である。ゆえにかれらの舞台が持ちうる公共性なるものは、固有名の消去と具体性の堅持とが両立される境地において出来するものとしてあるといえる。

レビュー
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いわき芸術文化交流館アリオス

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