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セイ|山田由梨:わたしが客席で居心地が悪かったのは

 『セイ』を観劇した。スペースノットブランク(以下、スペノ)の作品を観るのは、これで2作目である。最初に観たのは、今年、かながわ短編演劇アワード2023演劇コンペティションで観た作品『本人たち』だ。この大会では二部作である本作のうち後半の1本のみを上演しており、それだけでは私はこの団体が何をやろうとしているのかがよく分からなかった。それで、同時期にSTスポットで上演していた同作を観に行った。そこで一部二部とセットで観劇し、ようやく何をしていたのかがわかった気がした。
 ここで補足すると、わたしは批評を書く人間ではなく、スペノのお二人と同じく演劇を作る者だ。これからわたしが書くことは、ただの感想だし、想像だし、本来彼らがやろうとしていることとは違う意図を汲んでいるかもしれない。だけど、感想とはそれでいいのだし、「わたしはこう観たんだー」ということ以外に、わたしには言えない。それは、わたしが思ったことを嘘なく書いている限り間違いなんていうことはない。普段、観客にもそうやって勝手に観て、勝手な感想をじゃんじゃん言ってほしいなと常日頃思っているのでわたしもそうする。
 『本人たち』に話を戻す。本作は、パフォーマンスの前説や事前説明をそのままパフォーマンス化する一部と、女性二人が自分の話や考えていることを話し合ったり、相槌を打ったりする、そのことだけをパフォーマンス化する二部で構成されている。どちらもそこで語られている言葉がなんの意味もたないのが特徴で、いや、話していることの意味は別に通っているのだけど、明らかにその意味というものを理解させることを目的としていないのが分かる作品だった。早々に意味を追うことを放棄したわたしは、それを話している身体の振る舞いや、マスクから上の顔の表情、声の「それらしい」高低差、そういったものを鑑賞する。どこか居心地の悪さを感じながら。そういう作品だったと思う。
 「それらしい」振る舞い──それは例えば前説をしている人らしい振る舞い──を見ているので、それはもちろん「それそのもの」ではない。それ「らしく」パフォーマンス化しているのだから、それは「それそのもの」ではないのだ。ただ、『本人たち』は本人たちが本人たちを演じているため、限りなく「それ」と感じてしまう。けど、やっぱりそれはパフォーマンスなんだから、そもそもだって演劇なのだから、違うよね、「それらしい」のだよね、ということだった。
 『セイ』を見ているときにもこの手法があった。「それ」そのものではない、「それらしい」をパフォーマンスするという手法が。そして2作品目を見て、わたしは共通するものを発見した。それはおそらく、「それらしい」パフォーマンスをしているとき、その模している本体を「茶化している」ように感じるということだった。これが先述したように、観客席でわたしがなんだか居心地が悪く感じていた理由だったのだと思う。
 「茶化す」という行為は、物事の絶対的に見える価値をゆらがし、相対化し、距離を取ることを可能にする。しかし一方で、茶化す主体は、安全な場所からその物事の真摯さを冷笑し、嘲笑する加害のリスクと裏合わせでもある。そして、何かを茶化しているように見えるパフォーマンスを見ている時、観客であるわたしも茶化されているような気持ちになってくる。彼らが茶化す対象に自分もはいっているのだろうか、それともわたしは茶化す側にいるのだろうか、と、そういう居心地の悪さがある。スペノはこういった事象に自覚的に向き合いながら、観客のあり方をゆるがすような作品の提示の仕方を目指しているのかもしれない。
 例えば、前半に行われたライブパフォーマンスのシーン。アコスティックギター1本で、生活に密着した歌詞を、熱心に歌い上げるパフォーマーを茶化す。それも大真面目に茶化す。機材のセッティングや音響はこだわっていて本格的だが、身振りや歌唱力、ギターテクニックは下手すぎてもいけないし、上手すぎてもいけない。あまりにも上手ければ、それ自体が「本物の」パフォーマンスになってしまうし、下手すぎればパフォーマンスにすらならない。したがって、絶妙に上手くないパフォーマンス、絶妙に心に響かない歌詞、このような加減を維持しながらライブパフォーマンスを演じ、茶化すのである。絶妙に感動できないライブ感を維持し続けること、本物感を演出し続けていると、その先で、茶化し切れない真面目な部分がだんだん透けて見えてくる。どうしてそこまで茶化したいのか、ここまでして、という切実な想いが浮かび上がってくるのだ。
 それは例えば、熱狂的なファンに支えられてライブパフォーマンスを行うアーティストたちへの憧れ、そういったアーティストを熱狂的に支持するファンたちへの羨望、そのどちらもにもなれない自分たち、何者にもなれず──本作で描かれている主人公のように──女性にモテず、フィギュアを愛する以外の選択肢を見つけられない男性の苦しみが描かれているように見えてくる。
 後半で、この主人公の男性のかなり真摯な叫びが、俳優によって語られる。この作品の上演では、俳優が発話する全ての言葉がAIによって文字起こしされる形で、スクリーンに映し出されているのだが(先述のライブパフォーマンスの最中も、歌う人のすぐ後ろで、歌った歌詞が文字起こしされ、投影されている)、この語りのシーンでも例外ではない。そのAIの文字起こしは、iPhoneのSiriを思い浮かべればわかるように、正しくは聞き取ってもらえず、絶妙に間違え、別の言葉に誤変換されてしまったりする。ここでも言葉の意味が、意味をなさないことを具現化し、言葉なんてただの音でしかないのだ、という一面を示し続けている。
 その苦しい想いの吐露のシーンの言葉がAIに誤変換されているとき、一見ここでもその思いを茶化しているように思えるのだが、むしろ逆で、その真面目さは茶化すことができないものとして、どんどん浮き彫りになるように思えた。この真面目で深刻な苦しみの部分こそ、もしかしたら本当は笑い飛ばして、茶化し尽くすこともできるのではないか、その先が見たいという風にも個人的には思った。
 このAIの誤変換の演出は絶妙に可笑しく、わたしが観ていたときにも客席から笑いが度々起きていた。わたしもこの演出が好きだった。なんだかAIは呑気でいいなと思ったのだ。人間は悲しいことがあったら、自分を傷つけたり、人を傷つけたりするけれど、機械はそんな悲しみさえも間違えちゃったりして、お茶目で呑気。でも、ほんとは呑気ですらない、ただの音処理マシーンなのだけど。それでも、機械が人間の深刻さを、茶化してくれている。そこには機械と聞いて、冷たさや無機質さをイメージするのとは逆の、生暖かい質感があった。劇場を出たとき、梅雨の夜の生暖かい風を感じて、そんなことを考えながら家にかえった。

山田由梨 Yuri Yamada WebTwitterInstagram
1992年東京生まれ。作家・演出家・俳優。立教大学在学中に「贅沢貧乏」を旗揚げ。俳優として映画・ドラマ・CMへ出演するほか、小説執筆、ドラマ脚本・監督も手がける。『フィクション・シティー』(17年)、『ミクスチュア』(19年)で岸田國士戯曲賞最終候補にノミネート。2020・2021年度セゾン文化財団セゾンフェローI。NHK夜ドラ「作りたい女と食べたい女」脚本。WOWOWオリジナルドラマ「にんげんこわい『辰巳の辻占』」、「にんげんこわい2『品川心中』」脚本・監督。

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