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ささやかなさ、が書かれるに至った誰かのささやき

Powers of Ten っていう映像作品を見てると、10の2乗メートル宙に浮かんだぐらいのところでもうヒトやモノの差異がわからなくなる。青、緑、整理された区画、なんやわからんでっかい建物、そのなかにヒトやモノがうぞむぞいるんだろうなって感じ。システムが想定するヒトもそんな感じ。ケンブリッジ・アナリティカに好き放題いじくられてるのに、わたしなんにも感じない。目の前にいるヒトをそーゆーふーな無感情で見ることもできる。って、油断してると、足もとからでっかい鯨が白い飛沫をあげながら現れて、大口開いてわたしを飲み込んでしまった。
世界ってなんて素晴らしいの。
言葉がわたしとあの人を区別する。わたしが持ってる性質やブツを具体的に並べてってもそれがわたし固有のものであるとは言えなくて、わたしとまわりにあるものとを取り結ぶささやかな関係こそわたし固有のもの。だから何だ、って言われたら、まあ知らんけど、だから何だって言ってくるひととだって関係は結ばれてしまう。たまにはSNSやめてここに来てわたしの目じっと見つめてみたら? たぶん感動するよ? って思うけど、めんどくさいよね。ってな感じのなれなれしいことば使いで、わたしは誰かと誰かを区別する。その区別が誰かを傷つける。ほんまはそんな杜撰な区別で傷つく必要ないねんってわかってても、ささやかなさで凶器になってしまう言葉とそのひとの区別の手つきに傷ついてしまう。そこにはイヤがオーにも関係がすでにできあがってるし。即消去しなきゃならないものだらけで、日々がめんどくさい。わたしが社会に国に何を負ってるっちゅうねん、海で叫ぼうが街で喚こうが関係はどこまでもついてきよるし、あーいややいやや、やっぱりモノは凹んだ犬みたいな顔しないし便利、やけど、たまに会うレジのおばちゃんとのささやかな関係にだって救われることあるし? 漆黒の部屋んなかで鬱々とカップラーメン啜ってても外の空気に触れた途端……みたいにどっかでポジティヴに転じる瞬間があるし? あー世界ってなんて素晴らしいのって何回も何回も言いたい、一日一日のささやかなさ、よさをさ、保存したいだけなのよ、それこそシェアすべきものなんじゃないの? 死んで灰になるまで、キミとボクのささやかなさ、くらし系をさ、これから一緒に作っていこうよってキムタクには言われたくないけどたまたま現れた誰かには言われたいし言ってみたい……から、重い腰回しだそー

小野彩加と中澤陽|『ウエア』メッセージ

ご来場の皆様、ならびに出演者、スタッフの健康と安全を十全に考慮し、公演を実施いたします。

新型コロナウイルス感染症への対応、対策については、以下をご覧ください。
◉新型コロナウイルス感染症への対応、対策について(2020年3月1日時点)


『ウエア』がはじまります。

保存記録の植村朔也さんが物語の内側と外側を繋ぎ、ご来場の皆様の想像による次の物語を生み出します。上演前の簡単なイントロダクションも行なっていただきます。

今回の公演から参加いただいている制作の花井瑠奈さんがレセプショニストとして観客の皆様を物語へご案内します。

舞台監督の河井朗さん、音響と照明の櫻内憧海さんにより空間の全体像が構築され、物語の土台になります。

stackpicturesの皆様には「舞台映像サポートプロジェクト」として物語をサポートいただいており、「長いオープニング」と「読むためだけの言葉」を制作いただいています。

額田大志さんの音楽が空間を切り貼りして、物語のイメージを助長します。

荒木知佳さん、櫻井麻樹さん、瀧腰教寛さん、深澤しほさんは、物語の原初であるアメーバとして、舞台を徘徊しながら物語を生み出し、実演します。

『ウエア』がはじまります。

2018年の6月から、池田亮さんと協働する構想を話し合い、原作の制作を進めてきました。『ウエア』というタイトルも2018年の6月からありました。舞台のための戯曲ではなく、物語のための小説のような形で書くことを決めて、じっくり時間をかけて書いていただいた結果、誰もいないメーリスに送り続けたメールが原作になりました。2018年の6月から、2020年の1月まで書き、送り続けて、メールに書かれた物語を池田亮さんの一部として受け取り、物語からイメージを抽出しました。物語は断片として、メーリスに送り続けたメールのように、言葉の集合体のように、なっているかもしれません。

池田亮さんは、自身が主宰する演劇ユニット「ゆうめい」にて、自身の実話を基にした物語を多く書いています。人にはそれぞれの生活があり、過去があり、それらはそれぞれに興味深く、人はそれらを共有することでわかり合おうとするわけですが、池田亮さんはそれらを物語として表現し、観客と共有しています。そしてその物語として表現する力量は、はかりしれません。

だから、池田亮さんが書くより純粋な物語を知りたいと思いました。
そしてできあがった『ウエア』は、池田亮さんが書いた現代の「神話」となりました。

物語の断片であり、メーリスに送り続けたメールであり、言葉の集合体であり、それらのイメージによって「私が私である」ことを自覚させられる池田亮さんの「神話」をスペースノットブランクとCHAOTICなコレクティブにより舞台にしました。DRAMATICなアドベンチャー、かどうかはわかりませんが物語を舞台に並べて待っています。未だ眠っている私たちの目覚ましを鳴らされようとする皆様のご来場お待ちしております。

今日も良い一日をお過ごしください。

2020年3月11日[水]
小野彩加 中澤陽


◉ウエア|作品概要
◉植村朔也|『ウエア』イントロダクション
◉荒木知佳と櫻井麻樹|『ウエア』出演者インタビュー
◉瀧腰教寛と深澤しほ|『ウエア』出演者インタビュー
◉額田大志|『ウエア』インタビュー
◉池田亮|『ウエア』インタビュー

池田亮|『ウエア』インタビュー

東京はるかにの植村です。

スペースノットブランクの新作『ウエア』上演に際し、保存記録を務めますわたくしが、原作を書いた池田亮さんに直接お話しをお伺いし、インタビューとしてまとめさせていただきました。

2万字を超えるインタビューとなりました。
また、インタビュー内容に作品のネタバレを含みますので、ご観劇をお考えの方は、観劇前に読むか、観劇後に読むか、ご自身の判断でお読みいただければ幸いです。

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池田亮 いけだ・りょう
舞台、美術、映像を作る団体〈ゆうめい〉代表。1992年8月31日生まれ。脚本、演出から俳優、彫刻から模型、小道具から大道具、映像まで手掛ける。2019年にMITAKA“Next”Selection 20thにて『姿』を上演。近年ではアニメ『ウマ娘』『チャレンジ1ねんせい』『けだまのゴンじろー』やYouTubeチャンネル企画の脚本を担う。

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植村朔也(以下、植村) 池田さんはご自身の記憶に取材して作品を書かれる印象が強いですが、『ウエア』はそうした予想を裏切るものでした。

池田亮(以下、池田) そうですね笑。僕はもともと彫刻とかをやってて、彫刻だと一人でものを作れるっていう意識があったから、だいぶイメージで作れたりするんですね。ただ、舞台となった場合はみんなで作るっていうことをやりたいと自分は思っていて。ゆうめいはいろんな人が関わる中で最初の共通を探そうみたいなところがあって、それで実体験や、取材してきた現実の根強い部分から立ち上げてくるっていうことを意識しているんです。三月にやる『ゆうめいの座標軸』ってやつもほぼほぼ自分の実体験とかからかなり引っ張ってきて作られてるんですけど、実際僕が自分一人の時って、イメージとかフィクションの方でだいぶ作っちゃったりとかして。フィクションは現実がスタートとしてあるけど、そこからどんどんずれてくみたいな、現実からどんどん離れてしまうみたいなのを自分一人だと作ってしまうので、ゆうめいの作る作品と『ウエア』はスタートの意識からだいぶ違うって感じですね。

植村 今後の具体的な展望はおありですか?

池田 今回池田亮っていう名前出して原作やったのが初めてな気がしてて。今までは全く名前は出さずに、誰もいないところのメーリスに勝手に送りまくったりとか、匿名を使って『電車男』みたいなことをひたすらやってきたので。嘘ついて、まったく嘘なのに、ほんとリアルに匿名な人からあっちも嘘かもとかわからないけどこっちにレスポンスしてくるっていう感じ。それでなんとなくな虚構を作ってるみたいな。それが例えばまとめサイトだったりにまとめられると、嘘からスタートしてるのにすごいリアルな返答をしてくれる人だったり、嘘だってわかってるかわかってないかわかんないけど冗談めいた返答をしてくるみたいな、なんかそういうある種すごい『ウエア』の世界に近いようなことばっかりやってきたので、そういう意味では今回自分の名前出すっていうのは初めてだなって思います。IPがばれたじゃないですけど笑。

植村 『ウエア』のLINEグループで「最高傑作です」と自信ありげにおっしゃっていたのが印象的でした。

池田 今までずっと匿名で作ることを僕は沢山してきて。2ちゃんねるでいうところの「名無しさん」みたいな、名前のない状態から自分の表現をしていくっていうのが今の自分にとっての結構なストライクゾーンみたいな。名前があるものって結局作者は誰ってところにだいぶ持ってかれちゃうと思うんですよ。自分だけの自分だけしか知らないものを作りたいって野望は凄くあったりしますね。これを書いたのは池田だと分からない作品を作りたいっていう。

植村 普通は自分一人で作る時の方が個性を出したいものだと思うのですが、池田さんは一人の方が匿名的な方向に向かわれるわけですか。

池田 たぶんそんな感じはありますね。『ウエア』も自分の名前を出さずにどう書くかっていう意味で、メーリングリストにずっと名前を変えた実在していないアカウントからメールを送り続けて「これ一体だれが送ってるんだろう」っていう。そこに作者の名前が出ないってことを凄い意識しながら作ってて。スペースノットブランクの二人が話してたのが、原作で名前を出すっていうこととか、いろんな周りの人と一緒に作るっていうことをあまり意識しないで、一人だけのものを作ればいいっていう。なんでまあ一応名前は出るけどそこはもう抜きにしてやろうって思って作った。なんで個性が出るっちゃ出てるんじゃないかなあと思う。

植村 確かにそうですね。けれど個性を出しながらも匿名性を志向なさるわけで、その原動力はなんなのでしょう。

池田 好みなんですけど、自分がなんかの作品を観た時に、作者の名前が出ていたらちょっと若干懐疑してしまうっていうか。作られたものっていうか、作者の方まで探りたくなっちゃうんですけど、それだと意図だったり発想だったり、作品とは別のところに行くなっていう感じがあるんですけど、逆に名前がなくていったいこれどういう人が書いたんだろうっていうと、いろんなことが想像できる。知名度だったり価値だったり助成金が取れるか取れないかみたいなそういうこととか、そういうところ抜きにしてやってるものに僕はすごい価値があるなみたいなことを。純粋に出てるなって感じがすごいするんですよね。

植村 池田さんは東京藝術大学のご出身でしたね。

池田 でも全然通ってなかったです。多分五回くらいしか。院の三年間で五回ですかね。一年留年しちゃって、城崎のアートセンターってところで卒業制作をしてた。一年から二年の進級の時は今まで大学外でやってた活動をプレゼンして「卒業制作こんなことやろうと思ってます」って言ったら特別に進級させてもらって、で、卒業制作はほんともうテキト―に作っちゃって笑、コンセプトも嘘ででっち上げて、そしたら信じてくれて申し訳ないなってほんとに。他の人達は一年二年くらいじっくりかけて作ってたのに自分は三時間くらいでもうホームセンターで勝手にテキト―な感じで作っちゃったやつで、コンセプトはその場ででっちあげたのに、そしたら教授的には「なるほどね」って言ってくれたんで。

植村 コンセプトって本当に嘘で作れるものですもんね。

池田 本当に嘘で作れるなと思いました。びっくりしました本当に。三時間で作ったやつは木で本当にテキト―な箱を作って、一輪車を乗っけて、で、テキト―に端材をくっつけたやつなんですけど、でっち上げたコンセプトは「親戚に子供がいて、子供が描いた絵を子供と描いた時間でこっちも立体として成立させる」っていう。

植村 もっと観念的な理屈の上でのでっちあげかと思ってましたけど、それは本当にただの嘘ですね笑。

池田 それで子供の教育とかにくっつけたんですけど。出来るものと、自分が何年間生きてきた上でのそれを立体として、で子供が遊具を描いたから僕も遊べる遊具を作りましたみたいな。

植村 子供はそもそも存在しないわけですよね笑。

池田 そうですね普通にいないです。で子供がこういう風に遊びましたとか嘘ついて、そしたら「なるほど、それは面白いねー」って笑。そしたら教授が信じちゃって面白い面白いって言って単位くれて。芸術ってマジ嘘っぱちだなーって思いましたほんとに。他の人とかもほんと一年間くらいかけてすごいでっかい大理石とか使って五メートルくらいのめっちゃでかい立派なやつとか作ってるんですけど、そういうの作ってる人に、自分のこと褒めてくれた教授が「ちょっとこれ見たことあるんだけどなぁ」みたいな事を言ってるときは本当にもう。ほんとテキト―な世界だなあって。有り難いなあと思いつつちょっと申し訳ないなあ、基本でっちあげなんだなあと思いました。

植村 『ウエア』は匿名性はありながらも、文章の書き手はどれも池田さん以外の誰でもないという解釈にも開かれたテキストですよね。そこが魅力的と感じました。

池田 確かにそれ(その解釈)含まれていい気がしますね。ゆうめいと全然違うってことがある種の匿名性になるのかなとか思って。原作と自分どっちが本当なのかわからないけど、どっちが本当なのか、それともまた別の人がいて別の人が書いているのかじゃないですけど、ちょっとこう自分を分散させたいなみたいな意味がすごいあったような気がしますね。自分をすごい分散させて、読んでる人が「書いた人が池田亮だから全部池田亮が書いたんだな」って思ってもらってもいいと同時に、でも自分のこと知ってる人ってやっぱ大抵ゆうめいの作品を知ってたりとかしてるんで、別のこういうものも作れるんだじゃないけど、全然自分の思ってたイメージと違うなみたいな、そういうところからなんか変わってくのかなあとか思ってたりはしてます。

─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 以下、ネタバレを含みます

植村 終盤の「あなたはきっと私に名前を付けるでしょう」という一連の台詞に気迫を感じました。これだけ匿名性をベースにした作品だと名付けに積極的な意義を与えるのが自然な道かと思うんですが、そうではなくて名付けが孤独に結びつくという……。

池田 そこはもう自分の思うところだなあというか。この物語のベースっていうか趣旨ですよね。

植村 名前についてどうお考えなんでしょう。

池田 個性を際立たせるっていうのがあると思うんです。世界に一つだけの花じゃないけど。僕はあんまりそうは思わなくて、みんなクローンだったらいいなあと思ったりする瞬間も結構あったりするんですよ。こんだけ人がたくさんいて、優劣も、異なってることもあって。異なってることがいい方向に働くこともあれば、悪いってことも相当あると思って。そうなった時に上下に縛られるっていうのじゃない別の次元に行きたいなって思って。個性とは別の場所ってなるともう自分は誰かわからなくなるし、自分ってものに名前も付けなくてもいいし。

植村 『ウエア』というタイトルはどのタイミングで思いつかれたのでしょう。

池田 一番最初に、舞台とか気にせず好きなものを書いてもらいたいって言われた時に、一番強く感じてたのは名前を付けるっていう。『ウエア』っていう名前も名前がぼやける名前にしたかった。母音だけの表現にして変化できそうな、色んな文字に変化できそうな、スタートとしての名前かなっていう感じで。一応皆さんはお金払って観に来てくれてて、じゃあ何に対してお金を払うっていう目印として『ウエア』っていう名前を付けたわけです。『ウエア』っていう名前から離れて名前を付けられるか付けられないか、っていうベースがあるって感じ。

植村 そのコンセプトで最初に作られた名前が「ニコンロ(※1)」と「ナミ(※2)」なわけですよね笑。
※1 『ウエア』の登場人物のひとり。
※2 『ウエア』の登場人物のひとり。

池田 なんででしょうね笑。僕にもさっぱりわからないです。何で出てきたのかなあ。名前もなんとなくそいつらがそういう名前を呼ばれてるんだなっていう次元からきてて、自然なイメージで。他の人にこう付けられたんだなっていう。で岡(※3)も最初に名前は正樹で「私は正じゃない方がいい」みたいなこと言ってるのも付けられた名前ってことで。ニコンロとかナミとかっていう人も誰かこういう経緯をもって名前を付けた人がいるっていう想像から生まれたっていう感じですかね。
※3 『ウエア』の登場人物のひとり。

植村 「メグハギ(※4)」という名前は自然に音の印象から選ばれましたか?
※4 『ウエア』の登場人物のひとり。

池田 最初は「恵まれる」とか「剥がれる」っていうそういう名前を考えてたんですけど、あまりしっくりこなくて、全然考えてなかったら勝手にふと「メグハギ」って名前がなんか浮かんできて。

植村 『ウエア(UEA)』というタイトルを意識すると「岡(OKA)」という名前は意味深な感じがします。そこに子音が混じることに意味はあるのでしょうか。

池田 たぶん『ウエア』っていう名前を付けてから「岡」っていう名前が出来てきたと思います。意味があると思います。正樹っていうのも岡的に本当は「止」っていう字が好きなのに上に一本加えられるっていうこととか、自分の好きなものになにか加えられるっていうことで、そこにフラストレーションが溜まって色んなことをやりだすみたいな人も多いなって思ってて。母音だけで成ってるものになにか加えられることによって変化が起きたっていう感じかなあ。

植村 池田さんは岡に自分を投射されていますか? それともどちらでもないのでしょうか。

池田 いや、どちらでもないと思います。誰にも感情移入してないです笑。誰にも感情移入は出来ないですね……。寧ろマジ何やってんだろっていうか。これあったらやだわあと思って書いてますね。

植村 岡が子音を剥ぐ話としては読めるわけですね。

池田 確かに。そう捉えられても全然いいですね。

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植村 池田さんにとってこの感覚の方がリアルなのかなっていう感じはすごくあって。テキストが小説とかというよりかはWEBを読む経験に近いですよね。複数の情報が、重要度を比較できない状態で並列しているじゃないですか。PC的な知覚をだいぶ意識されているのかなあと。

池田 かなり意識して書いたと思います。

植村 僕は『動物化するポストモダン』を連想しました。

池田 笑。

植村 色々な情報が平面的に置かれているなというか、あらゆることが互いに交換可能な場所に置かれている感じがあります。

池田 たしかにある気がしますね。自分が今何を信じて何を信じてないのかって、ネットにもあるしいろんなところにもあるしみたいな。で、嘘をつく楽しさだったりついつい言っちゃう冗談の中に本音があるみたいな、いろんな人に共通してる部分があるんだなあとか思いながら作ってましたね。全部を信じるっていうことがそんなに僕はできないので、例えばこのコンセプトがあってこのために作りましたっていうのをどうしても信じられなかったりする。すべてのものを均等に見せる表現をしましたって言われてもピンと来なかったりする場合が自分にはあったりして。なんか作品作るにしてもコンセプトっていうのがどうも腑に落ちないまま……。そういった意味で、それをディスるわけじゃないけど笑。自分で書いたのも言ったのも嘘だな、ほんとにそんなこと思ってるのかなみたいなことをずーっと思いながら書いてたって感じでした。

植村 中澤さんがこの前の稽古の時に、原作中に出てくる宮沢賢治を太宰治と間違っていらっしゃいましたね。太宰は初期の『晩年』なんか嘘に嘘を塗り重ねる作風なので、僕はほんとに太宰の名前があったんじゃないかって気がして。

池田 そうですね、間違えてましたね笑。ああいうの別に僕大丈夫だな。僕も「太宰治あったっけなあ」って。それくらいふわっとしてたってのがある。

植村 池田さんはどんな作品がお好きなんですか?

池田 彫刻家の船越桂さんの作品が好きですかね。彫刻をやりたいなって思ったのは彼の作品を観てプラス墓石とか見て作ったんで。あと映画とかだと『スタンド・バイ・ミー』とかすごい好きですね。それも墓繋がりで見たような気がします。

植村 お墓がお好きなんですか?

池田 墓参りとか毎年行ってて。そこから色んな好きなイメージが湧いてくるので。死んじゃったものが彫刻物として見えるみたいな。お水は上からあげたりっていうのもある種の作品として見えたりするなっていう。船越桂さんの作品もそういうのがイメージとしてあったんです。

植村 たしかに船越さんの人体表現には不定形なものにむりやり形を与えているような不思議な所がありますね。

池田 なんかこう顔だけ残ってるみたいな、置物として存在してるみたいな、なにか生命的だけど同時に動いていない物的なものっていうのが、面白いなって思った。そう見ると色んなものも生物的にも見えるし逆の静物にも見えるっていうか、その境目がなくなるなっていう、そういう視点が生まれたなっていうのがありました。

植村 静物画って、死せる自然ということですもんね。

池田 そうですね。そういう色んなものがフラットに見える瞬間って面白いなっていう。

植村 それはゆうめいでの活動にも通底する発想としてありますか?

池田 あると思いますね。さっき『スタンド・バイ・ミー』って言ったんですけど、たぶん『スタンド・バイ・ミー』がゆうめいの方なのかなって。死体を探しに行くっていう物語に惹かれて。生と死の境目がわからないっていう状態でエモーショナルで物語性があってっていうところに行くところの表現は面白いなって。ゆうめいっていう存在はだいぶそこから引っ張って出来てきたんじゃないかなあと。

植村 全てがフラットになるというのは『ウエア』でもすごく顕著ですよね。特に生と死がフラットになる感覚については、『ウエア』ではどの程度強いんでしょう?

池田 『ウエア』では生と死はそんなに出てきてなくて。生と死のことをあまり描こうって感じにはならなかったですね。

植村 これだけ虚実の境が見えないつくりで死の匂いが希薄なのは不思議な気がします。

池田 それは自然にそうなっていましたね。

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植村 これは勝手な推測かもしれませんが、ゆうめいの作風から離れた『ウエア』という作品に原作としてかかわる一方、なかばこれまでの総括的な『ゆうめいの座標軸』を発表されるわけですよね。それはゆうめいの活動に区切りがついた感覚があってのことでしょうか。

池田 確かに何となく、ポートフォリオじゃないですけど、ここまでやってきたことってのを見せてもらう企画でいいかなあって思ってたりしますね。ちょっとした区切りは確かについてるかもしれないですね、自分の中で。なんか新しい分岐点みたいなこともあるような気がしてますね。

植村 新しい分岐点。

池田 そうですね笑。でももともと『ウエア』は自分がずっと書いてきたものにすごい近くて、逆に言うとゆうめいがわりかし特殊な気がしますね。

植村 『ゆうめいの座標軸』についてコメントなどあれば。「座標軸」という言葉は随分示唆的ですよね。

池田 『弟兄』って作品があるんですけど、わりかし前作の『姿』に一番近いと思っていて、それはかなり実名を出したりとかして、現実がどうなったかっていうのを発表するっていうのに近い作品になってるんで、それが今のゆうめいのベースなのかなっていう。『俺』っていう作品は旗揚げの時にやったんですけど、一応現実から引っ張ってはいるけど、名前とかは全部創作だったり、創作の部分を加えたりとかして、もう終わっちゃった出来事とかあった出来事を経ての創作みたいな感じなんです。『弟兄』は現実でこういうことがありましたっていう発表なんですけど『俺』の場合はこういうことが現実にありました、それをもとに色々な目線で創作してみましたみたいな、その創作の中にはフィクションだったりが盛り込まれているっていう。一番旗揚げ公演がそういう感じだったんですね。旗揚げがだいぶ実話とフィクションが混ざってるっていう感じですかね。過去的な、過去に対しての創作物みたいな。

植村 『弟兄』の方は、過去の記憶を扱いながらも現在的な表現だったということですか?

池田 『弟兄』の方は現在形のものが入ってるなっていう感じですね。そうですね。

植村 それは今なお現在形のものですか?

池田 今なお現在形っていう感じが強いですね。だいぶリアルタイムを交えてる気がしますね。

植村 ゆうめいで作品を書くことの暴力性についてお聞きしたいです。書くことによって抑圧的な記憶に対しての復讐を果たしている側面があったのではないかと思うのですが、以前稽古で撮影された動画ではご自身の加害性について告白なさっていましたよね。それはこの復讐に一つケリがついたということなのかなと感じたんですが。

池田 だいぶケリはついてますね。『弟兄』もだいぶ自分の加害性にケリをつけた上での創作になるなっていうか。再演と言いつつ『弟兄』もちょっと変わってたりとか、自分の加害性とかいろんなものも盛ってったりとかしてだいぶ俯瞰して見るようになったなとは思いますね。

植村 それは『姿』という作品が大きいですか?

池田 だいぶ大きかったと思います。俯瞰する視線になっていますね。研ぎ澄まされたって言うのに近いのかなあと思います。『弟兄』の初演と再演はなんだかんだ言って自分の欲求みたいなのを結構ダイレクトに出してたなあとか思ってたりしてそれが暴力性に繋がってたんですけど、暴力性も顧みた上での再再演はそういった意味の自分をさらに俯瞰してるって意味での現在の発表みたいな感じになるなと思います。

植村 俯瞰というのは『ウエア』にも通じるところがありますよね。それだけ現在の心境がそちらによっているということでしょうか。

池田 元がそうだったのかなあと。匿名っていうものに対しても俯瞰できたからやってたんですけど、ゆうめいでいざ自分の名前を出すってことになった時に、実名を出すことへの視点がそこまで定まってなかったんじゃないかなあっていう部分があったりとかして、それが多分暴力的に見える場合もあるなっていうのは感じますね。暴力的に見えていいとは思うんですけど。

植村 距離を取って暴力をふるおうという?

池田 っていう感じなのか、でもやっぱりすごい不思議なことに、現実がそうはさせないというか。暴力をしている人に対して、なにか暴力は良くないっていうことだったりが実際起こったっていうものが、最近あったために、『弟兄』は結構暴力性が削がれているものになったなと。初演と再演は自分に暴力を振るってきた人に実名を出して糾弾するみたいなことやってたんですけど、その人から連絡が来ちゃって、で、「もう名前出さないでもらいたい」って、で、こっちも「名前出さないようにする」っていう。ある種暴力が暴力を押さえつけられたっていうことだと思うんですよ。向こうも暴力やってたけど、こっちも暴力したら、向こうもやめてもらいたいっていう、その。じゃあ一応抑えますけどっていう、そういうなんかあーやっぱ暴力性って出せば抑えてくる人はいるんだなっていうのがすごい強く感じて。

植村 一度実名を出されたことに対してはどう向き合ってゆかれるのでしょう。

池田 向こうは「公演では出さないで」って言ってるけど、でも別に個人で出しちゃダメとは言ってないから、公演が終わった後に気になる人は聞いてくださいっていうそういう感じですかね笑。電話してきた人たちも「これ以上」って言ってたから、今まで出しちゃったことに対してはもう容認してるのかなって自分の中では思ったから、じゃあこれから先はそういう関係の変化も現在進行形で表れるなっていうか。その関係の変化ってこっちが実名出すって暴力を削がれたものだし、向こう側から来たアプローチで関係が変わったって形になる。

植村 そういうことですと、これまでのバージョンをご覧になった方でも楽しみ甲斐はありそうですね。

池田 楽しみ甲斐はすごいあると思います笑。あーあいつだれだったっけなあみたいな。頭文字だけ言おうっていう演出を今してて。たとえば今から言うのも仮名なんですけど、「佐藤 洋平」さんみたいな人がいたら「さささ ささささ」みたいなそういう言い方をするみたいな。「さささ」役を演じる人も「あ、俺さささ、さささ。覚えてる?」みたいな。一種、初演再演を観た人にとっても「あれ、規制がかかってる」っていう面白さだったり。

植村 図らずしてゆうめいの方でも匿名性が増しているわけですね笑。

池田 そうですね、コンセプトとか全く別でやってたのに。こっちは現実を意識してて向こうはフィクションを意識してきたんですけど、図らずとして現実で現実的なことが起こったから匿名性に寄せられるみたいなことはありました。

植村 それはハプニング的なことではあるでしょうけれども、その匿名化になんらかの意味を感じたりはしますか。

池田 現実を意識してきたのにフィクション性が増すっていうのは面白いなっていうか。またそれが別の時空じゃないですけどこういうことが起きるんだっていうのは不思議に思いましたね。初めて再再演から観た人にとっては本当なのか嘘なのかわからなくなるんじゃないのかなっていうのは。

植村 今後ゆうめいで池田さんが発表される作品がどのようなスタイルのものになるのか見通しは立っていらっしゃいますか?

池田 一応なんとなく予想してるのが、たとえば『姿』ってやつは現実の諸事情によって、本当は現実を全部描きたいけど現実を全部描いたら問題が起きるっていうのが、それは法的なものとか、実際にその、被害を蒙る人とかも出てくるから、ところどころフィクションを入れてますってことだったんですけど、で、それで成り立ってたんですけど、次ゆうめいでやろうとしてるのは「全部フィクションですよ」って言いながら全部本当のことをやろうかなっていう風に考えてますね。

植村 その手つきは今ここで晒しちゃって大丈夫なんですか笑。

池田 たぶんまあ、そうですね。気付く人は気付くしみたいなことになるし。フィクションと言いつつ現実にかなりアプローチしたものになりそうだなと思ってますね。

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植村 池田さんとスペースノットブランクのお二方との信頼関係は厚いなと感じます。お二方は他の方の舞台芸術作品についてあまり言及しない印象があるんですが、池田さんの作品についてはよく話していたので。

池田 そうですね。中澤さんに関しては以前二度ゆうめいに出てくれて、一番最初に出たやつはかなりフィクション性の高い舞台で今のゆうめいとはまた全然違う、それこそ自分のやりたいものとか、詳細とか緻密に作っていくものじゃないものを作ってたので、そこに出演してもらって、その次にいまのゆうめい的な、蓄積しながら実話の軸は変わらないものを作ってきて、その二作品、フィクション性の高いものと、ノンフィクション性の高いものに出てもらった時に「フィクション性が高いものの方がおもしろい。で、そっちの方を書くべきだ」とずっと言ってきてたから笑。僕一人が作るものっていうものにすごい興味を持ってくれたんだなあと思います。ノンフィクションだと取材してそこのつながりで作ってるってことだから、ベースがノンフィクションにあるから、それだと複数色んな人に関わって来るから、ってなるんですけど、僕一人だけのところからスタートして物語作ってた方がおもしろいって言ってたんで。

植村 フィクションから出発した方が池田さん的だと。

池田 そうですね。

植村 『ウエア』全体の中で何割くらいが池田さんの実体験から引き出されているんでしょうか。

池田 たぶん一割にも行ってないくらいだと思います。間に入って来るアニメとかのやつは自分の経験をもとにしてフォーマットを作ってますけど、自分の経験だったり、噂話からもってきたりすることとかあったり。自分の実家の近くに実際その、鳩小屋があって、そういう薬物とかやってる人がいてみたいなことは知ってるけど、そこは実際はそんなに踏み込んでないしみたいな。何かそういう場があったなっていう。実際本当にそういう場があったのかっていうのも自分に疑問を持っているところがあったりして。

植村 実際に「ヨクジョー浴場」があったことはお聞きしました。

池田 あー実際そういう場所はあったりは。名前は変わってたり、風俗ルポみたいなシーンも大分嘘とか盛ったりしてて。

植村 ゆうめいの場合は嘘を混ぜ込むことは少ないですか?

池田 結構少ないと思います。見せ方は変えてるけど芯の部分は変えてないなっていう。芯の部分をベースとして、変換して表現してるっていうのがゆうめいなんですけど、こっちの場合は芯の部分ごと変換してるから。

植村 形式にご自身の経験は生かされているけど、中身にはあまり使わないし、使っても嘘を入れるし、ということですね。その中で池田さんの記憶を用いた箇所には、特別な意味があったりしますか? お聞きしていて、あえて記憶の中でもあやふやなものから立ち上げているのかなという気がしました。

池田 そうですね。そこもありますね。あやふやで、あやふやだけどこっちが勝手に想像してイメージつけて肉付けてるみたいな部分とかあったり、あとは自分の体験から引っ張ってきてる部分とかって後々読み返せばわかるんですけど、その時書いてるときは全く別の時空で書いてるみたいなのがあったんで。

植村 書き終えて後でその意味に気付かれた箇所があるということですね?

池田 プール教室のシーンでジャグジー潜るっていうところあったじゃないですか。あそこ僕ジャグジー自体一回も潜ったことなくて。ジャグジー潜るの恐いんですよね。

植村 じゃあ「ヨクジョー浴場」のシーンも嘘なんですか?

池田 嘘ですね。一回も潜ったことないです。ジャグジーって僕トラウマがあって。月曜日のコナンとかが終わった後にやってた世界まる見え!何とか特捜部ってやつで、ふざけて温泉に潜っちゃった海外の女性が排水溝かなんかに引っかかっちゃって窒息しそうになってそれをレスキュー隊が救うみたいなVTRをちっちゃいときに見たんですね。そん時に怖えなって思って。ジャグジーとか水がぐーって出てるああいうところになんかの拍子に引っかかっちゃったら、髪の毛が引っかかったりして出れなくなったらどうしようって思ったりして、かつジャグジーだから泡ばっかりでどこにひっかかりがあるのかわからないっていう、それが凄い怖くて、ジャグジーは絶対潜らないって決めてたんですね。それを思い出しました。ジャグジーって絶対自分は潜らないって考えてたし潜ったら怖いってなるけど、勝手に潜った時の風景とか想像してできたから、それで後で読み返して、なんでジャグジーのシーン書いたんだろうなって、あーそこかーみたいな。自分の潜んなかった場所とかをすごい考えてたりしますね。

植村 ない記憶だけどトラウマに出発している。そこでも嘘と現実が混じり合っていますね。

池田 そういえばジャグジー嫌いだったなみたいな思い出されたりして。書いてるときは全然そんなこと思ってなかったんですけど、どっか想像で書いてる場所は自分で体験しえなかった場所を描いてたんだなあみたいな、そういうことは思いましたね。

植村 この前の稽古で話されていたカーペットのエピソードも印象深かったです。

池田 ああ、人形がどっか行っちゃう話。あれも多分あそこの場で話すのが初めてで、それ以外で話したことなかったんですよ。『ウエア』っていう作品を初めてやる時に勝手に自分の中でイメージで岡ってやつがメーリスに送るとかってなってるときに、なんかすっげー汚い部屋で、ゴミとかすっげー散らばってる中でゴミを勝手にいじくってゴミに書かれてる文字とかどういうゴミが落ちてるのかとか端からずっとチェックし始めるみたいなイメージがなんか勝手に浮かんだんですね。最終的にカーペットが残ってて、それでカーペットの裏をめくってくみたいなそういうシーンが最初に頭に浮かんだから。

植村 それはヴィジュアルから先にイメージされたんですか?

池田 かなりヴィジュアルからでしたね。自分じゃ絶対そんなことしないし、したくもないし。

植村 ジャグジーにしてもカーペットにしてもトラウマ的なもの……?

池田 そういう意味だと僕はカーペットとか好きじゃなくて。ゴミとかたまっちゃうし、フローリングのままでいいなと思ってて。うち猫飼ってるんですけど、カーペット毛だらけになっちゃって掃除も大変だから、あとルンバが動きやすいからカーペットとか敷いてないですけど、なんかそういえばそうだったなあみたいなのが後になって気づくことがたくさんありますね。やっぱ自分の記憶から引っ張られてるのかなとか。カーペットってイメージが先から自分の経験に根付いてるっていうのはあったなーと思ったりとか。勝手にそうリンク付けてるのかもしれないですけど、自分の中で。カーペットの下にそういえばいなくなっちゃったなみたいな。

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植村 『ウエア』は岡という人間がメグハギを作った経緯を遡る仕方で書かれています。その時間の流れの意識はなぜこの作品の中心に据えられたのでしょう。

池田 これを書き始めた当時にやってたバーチャルYouTuberという仕事で見つけた発想からきてたりしてて。設定ではAIってなってて、自分一人でやってるってなってるけど、世間ではそう言ってるけど実際は中にはたくさんディレクターとか僕みたいな脚本家の人がたくさんいるんですよ50人くらい。で声優さんもいて、勝手にモーションキャプチャーとかもつけて、で、それで「AIですよー」とか言って、AIじゃないことは視聴者も勿論わかってるんですけど、でも「ポンコツAIだな」みたいな発言をするっていう。そこの仕組みは面白いなって思ってて。みんななんでこの構造を知ろうとしないんだろうなあみたいな。たぶん構造はわかっているけど、構造をあえて知ろうとせずに楽しむっていう。初音ミクと結婚するみたいなニュースが前にあったんですけど笑、そういう風に創作物とかありえないものを本物に思うって人の自由なんだなって。僕の場合メグハギっていう存在信じていいし、メグハギの裏側はどうなってるのかっていう方向もやりたいなって思った。AIが勝手に書いた物語になってもいいし、同時にただ岡とか須田(※5)っていう実際の人間によって書かれたやつになってもいいし。いろんな肯定が出来るように書いたって感じはありますね。
※5 『ウエア』の登場人物のひとり。

植村 メグハギのルーツをたどるという構造がそもそも必要だったということですね。

池田 中身が知りたいって人は勿論いると思って。最終的にメグハギがAIなの? みたいな。じゃあメグハギはメグハギとして単体として存在してるものなのかなみたいな。

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植村 池田さんにとって自分が一番やりたいことをやる場所はどこになってゆくのでしょう。

池田 もともと最終的にこうなればいいなと思ってるのが、結構でかいアトリエを建てたいなみたいな、そういうことを考えてたりしてて。例えばアトリエと美術館が一緒になってるみたいな空間が建てられればいいなと思ってて。那須塩原に藤城清治美術館というところがあって、そこは藤城清治って人がひたすら今まで描いた作品を展示してるんですけど、彼は主に切り絵を作ってる方なんですけど、自然と一緒に混じりあってるみたいなそういう建物を造って、そういう場が池田亮美術館じゃないけど、池田亮じゃなくて他のいろんな作品が混じりあう場になればいいなと思ってるんですよね。藤城清治さんがまだご存命で90なん歳まで生きてるんですけど、リアルタイムで進んでる感じがあるので。基本美術館とかって完成品をもってくって感じなんですけど、完成品じゃないものを展示していいなあみたいなこととかを思ってて。アトリエと美術館と劇場ですかね、そういうのがミックスされた状態の場を作れたら面白そうだなと思っていて。そういう感じがある種目標ではあるのかなあ。自分が作るものが一つの色にとどまらないように意識はしていますね。

植村 藤城清治美術館、ネットに全然情報が出てないから行くの躊躇してました笑。

池田 一回足を運んでみないとちょっとわからないですけど、良くて。藤城清治の美術館、受付の人がすごい藤城清治ファンで、「回ろうと思えば一日じゃ回れないですよ」みたいなすごい熱弁してくれるんですよ。受付の人が一番ファンみたいな。僕も基本やっぱいろんな作品を見るのがすごい好きなんですね、どんなものでも結構好きで。作りたいっていうのと同時に、見たいっていうのが両方あって。鑑賞者にもなりたいし作る側にもなりたいっていうのがすごい強いので。藤城清治美術館行ったときに、自分も作って置けるし同時に見れもする場が欲しいなって思ったのが正直なところですね。

植村 『ウエア』に原作としてかかわるという行為もそれに近いかもしれませんね。

池田 そうですね、近いと思います。それこそスペースノットブランクは俳優から言葉を持ってきたりとか、どっかから影響を受けて作っていて。自分は原作ってなってるけど、原作ってよりか自分の場? みんなが何か出してくれる場を提供してるのかなあとか思いながら。皆さんが結構自由に出してくれるのを僕は観賞するみたいな、そういうありがたい場ではあるなあと笑。

植村 一貫して場を作りたいという欲望がおありですね。

池田 それは強いと思いますね。場を作りたいってのは僕の匿名性とかっていうのに繋がってきそうな気がしてて。

植村 お話をお聞きしていて、やはりこれまでのゆうめいの作風からは今後離れてゆく感じがあります。演劇って作家を中心に観る傾向があって、ゆうめいは特にそう感じられますので。

池田 そうだと思います。作演はだいぶ根強くあるなと思いますゆうめいは。

植村 『ウエア』では仮フライヤーやポスターに制作者の名前が50音順でフラットに置かれましたが、それは池田さんのお考えに響きあうところがありそうですね。

池田 ある気がしますね。

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植村 信頼っていうことが一つのテーマとしてありますよね。冗談を通じた信頼。それは自分という存在が希薄になる場所を作りたいという欲求に対応するものとしてあるのかなという気がします。

池田 そうですね。既読無視するってのが信頼につながるってこともあると思ってて。二人の関係的に須田は別にメールとかチェックしてなくていいし、岡も向こうはチェックしてるかわかんないけどとりあえず須田なら送っていいみたいな状態になってるみたいな。そこはある種の信頼関係だなって思って。お互いの秘密は言わないみたいな。ただ多分須田が「岡からこんなメール送られてきました」って言って岡がそういう噂を聞きつけたら岡も須田のこと沢山言うと思うんですよ。送ってきたラインだったり、須田が今まで考えてきたこととか。お互い半ば冷戦みたいな状態になってるっていうか。二人の冷戦ってある種信頼関係でもあるんじゃないかなって気がしてて。そしたらこっちもこうするぞっていう。

植村 スペースノットブランクが並行して制作している『氷と冬』もまさに個人間の冷戦のような題材を舞台へ如何に立ち上げるかという作品なので、そのお話はお聞きして驚きました。

池田 凄いですね、そうだったんだ。たぶん近いんじゃないですかねえ。だいぶ面白いですね。同じ時間を生きてはいて、ただお互いのことを他の人にはばらさないようにしてる。親密な冷戦だと思います。本当に一人だけに向かって無茶苦茶わけのわからない表現を送っている、しかも壮大な時間をかけてよくわからない脚本とか新聞だったりそういうのを送ってるわけだから相当力は使ってるんだなっていうそこはある気がします。

植村 稽古で、二人のやり取りは中澤さんとのLINEに似ているかもしれないという話が上がっていましたね。

池田 改めて言われるとそこまで似ていない気もしますけどね笑。こっちの方が結構力加わってる方だなって思ったりはします。あでもこれも『ウエア』書いて送ってるから結局同様のパワーはあるのかなとか思ったりします。

植村 岡が独りでメーリスに送っては自分で消してっていう親密さから、須田を導入したことで岡と須田という二人の間の親密さになった。そのことの意味は大きいかもしれませんね。

池田 たしかにデカいと思いますね。

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植村 苦労を経て今の形の『ウエア』を完成させたとお聞きしました。具体的にその変遷をお聞きしてみたいです。

池田 最初は自分がメーリスに送ってた文章を全部書き起こしてて、グーグルの曜日とか書いてたんですよ。全部コピー&ペーストをこの文章の中に起こしてたんですけど、実際メーリスが消えるみたいなシーンをメーリスの中で本当に僕消してたりとかしてたから笑。

植村 面白いですね笑。それは残ってないんですか?

池田 残さずに送って、「残ってないの?」って言われても「いや実際消しちゃったから、消すってシーン実際消しちゃったから残ってない」ってことに笑。

植村 あれ、消しちゃった事実って本文中には含まれていますか?

池田 ここ(完成稿)には含まれてないです。消しちゃった奴もここには一応残すようにしたんですけど、初稿は消すんだったらほんとに消してたので、グーグルのサーバーたどれば残ってるかもしれないですけど、そういう見せるものとしては残ってないっていうか。僕しか知らないみたいなそういう意味で作ってて。それもある種の完成形だと思ったんですよね。実際書いたものを飛ばしちゃってるし。メーリスを消しましたみたいなそういうコメントがあったりとかするっていう意味での、そこのメーリスにリアルタイムで見てた人の時間でしかわからないものを作ってた笑。

植村 パブリックとプライベート、個性と匿名性の関係性が本当に複雑ですね。誰にも見えなくなることが個人的な形としてあるし、けれど文章が匿名化していくことが親密な個性の発露としてもある……。他には、目立った変更点などはあったのでしょうか。

池田 最初にメーリスで書いてることによって物語として成立してたんですけど、実際消し終わった状態で、自分だけ物語体験した状態で、そのなれの果てみたいな状態を送ったから笑、たどり着いちゃったものをお送りしてるから、それは物語が共有できないなっていう話になって、だったらもう途中に物語を入れ込むようにしていったって感じでした。だから間のその関係性とかをなかば説明っぽい感じで、点線とかで入ってる途中の須田的なやつとか追加されてったり、消しちゃったメーリスとかも追加してったりしたんで。

植村 物語を共有する必要が強くあり、なれの果て状態からそれを復元するためのガイドとして作られたのが須田だったということですよね。一回なれの果てにしちゃった動機はなんだったんですか?

池田 自分が一番楽しいと思っちゃったせいだったんですよね。到達したなって思って自分は消しちゃったし、たぶん本当にガッと書いて、なれの果てになったのがたぶん五分の一くらいしか残ってなかったんですよ。それに至るまでに「先ほどのメーリスを消しました世界は消滅します」みたいな事を言って笑、「じきにこのメーリスも消えます」みたいなことを送っといて実際に消してるから、そこはもうほんとに自分だけしか楽しんでないみたいな状態だったと思うんですよ笑。

植村 池田さんが前にしきりに「他の人が読んで面白いのかわからない」というようなことをおっしゃっていまして、これだけ面白く書けても不安になるものなんだなあと僕なんかは感じたんですが、たしかにその作り方だと何もわからなくなるかもしれませんね笑。

池田 ほんとうになれの果てに辿り着いちゃった所のを提示しちゃってたから。最初の「好きなように書いてください!」っていうところに、自分なりに応えすぎてたし、ところどころ「これ消しちゃたぶん彼ら求めてるのと違うな」と思うけど、多分今までで一番自分優先しちゃったんで。

植村 それは、より物語性をという形でスペースノットブランク側からブレーキがかかったということですよね。

池田 初稿でなれの果て出した時にもうちょっとそこに至るまでの経緯があってこその物語だなってことをおっしゃられてたので、確かにそれもそうだなっていう、自分の中で完結しちゃってたものを提示しちゃってたからなあっていう。これはもう好きなように書いていいっていうものの、葛藤みたいなものは凄いあったような気がしますね。書いたものを消したいし、消すことによって成立するし、とか自分の中で思ってたから。

植村 それは本当に大きな変化ですね。

池田 はい。でも消しちゃったものから改めて物語を立ち上げていくっていう意味では、またそこから別のものに変化していったなっていうのはありますよね。復元にはなっていなかったかもしれない。追加しましたね。

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植村 そういえばこれが舞台作品の原作として書かれたことに意味があると思っていまして。起点や終点をどこに置いてもよい作りが採用されていますよね。

池田 舞台になることを想定しなくていいって言われてて、で、じゃあ舞台じゃないものを考えていいんだって時に、最初に思いついたのがメーリスだったんでそこからいずれ舞台になるってことはあんまり想定せずに書いてたかもしれないです。そこの自由さがフレキシブルな感じで逆に行ったのかなあと思いますね。逆に舞台にしようってなると色んな意図とかが加わって逆に読んじゃった人が「ああこここういう意図か」って思っちゃうけどそういう意図とか全くなしにメーリスっていう媒体で自分のやりたいものを書いたんで。

植村 その意味でもWEB的かもしれませんね。WEBを巡る経験って始まりも終わりもないので。

池田 そうですね。

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植村 いま池田さんにとって中心的な表現媒体は演劇だとお考えですか?

池田 いや、それだけじゃないような気がしますね。もともとそんな意識があまりなくて、媒体っていうものはあまり考えたことがなかったかもしれないです。舞台とかだと一応お客さんが増えたりするから、よりそこに繋がりやすいツールではあるなと思ってて、でもそれ以外もやりたいものに応じて媒体は変わってくるなあとは思ってますね。舞台が確かに結構いま主になってるとは思いますけど。

植村 作品中で複数のメディアの表現が出てきます。映画のポスター画像でしたり、アニメの脚本でしたりとか。その理由をお聞きしたいです。

池田 極端な話いうと、メールでやりとりしてるとどうしてもなんか入れたくなっちゃったっていうのがまず一つにあって笑、同時に……例えばライトノベルってあると思うんですけど、途中に絵が挟まってるみたいな。僕初めてライトノベル見たときに「ちゃっちいな」って思って。ほんとだったら文字しか描かれてないものに途中挿絵があるっていう感じが、なんで入ってんだよみたいな。いきなりイメージを促進するようなことしてきたなとか思ったりしてて。でもどの小説にも表紙ってあるんですよね。本来だったら文字だけで想像させるってものだけど、確かに今まで読んできたものって挿絵もあるし、文学といいつつ視覚的なデザインだったりがあるなあと思ったので、そのデザイン的なことも考えて入れてったかもしれないですね。途中のイメージの共有みたいなのを敢えてさせようみたいな。読んでる人にとってもちょっと暴力的かもしれないけどここは共有させておこうみたいなのが強かった気がします。

植村 「ちゃっちいな」って感覚についてもっとお聞きしたいです。

池田 携帯とかいじってると広告とか入ってくるじゃないですか、あれすごい面白いなあと思って。TikTokとかインスタとかでもどうしても入ってくる。実際僕もそういう仕事をしてて、ソーシャルメディアをどう売り込むかみたいな。Youtuberの作家をやってるんですけどそれも途中で広告を入れなくちゃいけない。広告を入れるっていう作為的な行動が自分もやってみたいな、文章の中でっていう。

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植村 『ウエア』の原作をそのままの形で公表することは考えていらっしゃいますか?

池田 あー、出来たらいいなとは思ってますね。その文章はこういうデザインで作っちゃったから、もし縦書きで作られるならデザインを変えたりとかするのかなとか思いました。

植村 それはいいんですか?

池田 どうなんですかね、まあそうなったらそれに変えるように書けるなって。いくらでも完成する方法はあるなって。

植村 縦書きか横書きかでPC的な視覚かスマホ的な視覚かっていう大きな違いが出るじゃないですか。さしでがましくて恐縮ですが、そこは慎重に考えた方が良いのではないかなと思います。

池田 確かに笑、そうですね。書籍化ってしっくり自分もきてなくて。電子書籍でも読めるし、電子書籍の場合って本のフォーマットには則ってない変換された文字でもデータとして配布されてるから、そういう配布のされ方でいいんじゃないかなとか思ったりとかしてて。データ化される際と書籍化される際にはまた違うデザインになりそう。

植村 PCは複数のウィンドウを平面的に並列できますが、スマートフォンではそれがあまりできないじゃないですか。それって大きな違いですよね。僕はこの形はあまり崩してほしくない気持ちがあります。

池田 そうですね、崩したくないですね。また書籍用にすると物語自体変わっちゃうから。

植村 PC的な横書きを捨てると、また別の作品になるはずですよね。表現はPC的ですが、扱われる表現媒体はスマートフォンを連想させるものが多いのが不思議です。というよりは、なぜ現代にこれだけPC的なものが作られたのでしょう。

池田 メーリスもパソコンで書いて送ってて。パソコンで書いたやつをスマホでチェックした時もあったんですね。で、最初に送ったのも、スマホでメーリスを送る場合とパソコンでメーリスを送る場合で異なってたと思ってて。最初にベースにパソコン的なのがあったっていうのはだいぶそうですね。途中で過去に戻ったりする時に、僕が最初に文字とか書いたのがパソコンだったっていうのがあるかもしれないですけど、最初にWindows95のイメージで書いてたんです。実際僕送ってたのは普通にiMacのグーグルのやつなんですけど、最初これを打ってた時は初期のパソコンから送ってるイメージがあって。過去のパソコンから今の状態を送ってるみたいなのを成り立たせたかったなみたいな。このパソコンは縦書きにしかできないパソコンですみたいなことを終盤位にヤニクってところで通信して。縦書きって偏見かもしれないですけど若干前時代的な事だなあと思ってて。前時代的な過去にこだわりながら横書きのメグハギがあって。そういうイメージがありましたね。

植村 二重の意味でマルチメディア的な表現ですよね。アプリケーションのレベルとデバイスのレベルと。読む側はその分ついていくのが難しいかもしれません。

池田 物語を信じている人が読むとわけがわからないっていうものになるんじゃないかなあとは思いますね。ゆうめいだとわけがわからないっていう感覚で終わらせないようにはしてるんで逆だなあとは思います。

植村 たぶんスペースノットブランクはわかるようには加工してくれないでしょうしね笑。

池田 そうですね。だからまあそれもどのみちそうなるのかなあって風には思ってるから。ただまあそこはわかんない人は聞いてくださいっていう感じですね。解説もしますし自分が一番よくわかってるのでっていう感じで。そういうルーツになればいいなあと。

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植村 「メグハギを書く際に意識していること」って文章が作中に登場します。そこに感情移入しやすさを心がけると書いてあったと思うんですけど、その意図に反するかのように、読み手がメグハギや須田や岡に没入するのをどんどん拒んでいく構造をこの物語は持っているじゃないですか笑。没入しやすく書くという手つきをさらしながらその逆を行くんですが、読んでいる僕としては、意識は散らされながらも感情移入と違うレベルで没入して読む感覚はあって、それが奇妙で面白いというか。

池田 そこの書いた文章は自分の中で意識して書かなくちゃいけないなみたいなのもあったりしてて笑、そういう意味で自分で書いたってのと同時に、没入すると言いつつ、メグハギの世界ってどういうものなのかとか、どういう人が読んでるのかっていうのがわからないので、とりあえず視聴者っていうか観る人にとって観る人が主人公みたいなことを書いたと思うんですけど、そういう意味でのリンクなのかなと思います。目の前でわけわかんないこと起こってるけど、一応読んでるのあなたですよみたいな。そこの目線は僕と読んでる人とある種共通してる部分かなあと思います。僕もわかんない世界を描いてるし、向こうもわからない笑。たぶんちょっとわかってるシーンとかある、わかってはいるんですけど、ただ、どうしてこの世界でこれはこうなるのかっていうのは自分でもわからない部分が結構あったりとかしてて、それが気まぐれなのかと言われればあんま気まぐれじゃなかったりとかいう感じがあったりとかして。

植村 僕はゲームの感覚なのかなって。たとえば『LIVE A LIVE』って主人公コロコロ変わるけど没入しないわけじゃないですよね。プレイヤーは常に自分だから視点は保たれていてみたいな。

池田 だいぶゲームの感覚、そうですね。アプリゲームの開発者の言葉からいろいろインスパイアされてたんで、そこのルーツから引っ張ってこられてる。ゲーム的な感覚にすごい近い。

植村 架空のキャラクターであるメグハギについての語りですけど、ゲーム的な感覚もかなり含まれているわけですね。

池田 そうですね。

植村 「主人公(とヒロイン)を明確にする」って、爆笑ポイントですよね笑。

池田 そうそう笑、全然明確にはなってないですもんね。そういう意味でもメールを送ってる人なりのギャグなのかなとか思ってたりはしてて。こんなこと書きながら逆のこと言ってんじゃねえかよっていうツッコミ待ちの状態みたいな、そういう遊びみたいな感じになってるんじゃないかなって。

植村 この前の稽古でマルチメディア的な表現の理由をお聞きしたときに、それぞれの表現によって、自分が今いる世界を確認しているというお話がありましたが、それは先ほどの「自分でも何を書いているかわからない」ってところに対応してくる気がします。

池田 書いてるといろんな場所に行くなあと思っていて。時折その場所を定めたりしてるのが画像だったりしてるんですけど。写実的な表現だったりすると、軸があって明細に描いていくことで物語が蓄積してくって感じなんですけど、時折僕はそこからワープしたくなる。ゆうめいとかいろんな人が関わっているとなるとそれはワープせずに行くと思うんですよね。細かいところから蓄積した物語を作りたいってなるのは、いろんな人が関わっててそれを丁寧にしたい、積んでいきたいみたいなイメージがあって。分散されるものは自分一人だったらできるなって感じがしてて。ただ自分一人で書いてるといろんなところに自分は行きたくなっちゃうんですよね。自分一人しかいないからどうしてもその、ワープしたくなるっていうか。

植村 そのとっちらかりはどの程度ご自身で計算されてるんですか?

池田 家帰ってユーチューブとかツイッターとかいろんなところチェックしようっていうその行動原理があると思うんですよね。帰ってきて、スマートフォン見て今までチェックしてたニュースだったりツイッターだったりユーチューブだったりを情報を得る為に動こうって思うみたいな、そこら辺を起点にしながら書いてたりしてるところがあって。じゃあなんで情報を仕入れたいのかっていうとなにか自分が発したいとか何か得たいって欲求だと思うんですよ。何かを学びたい何かを知りたいっていうその欲求って何だろうっていうことを考えながらいろんな場所にワープしてくっていうか。だからここにいても得られるものが無かったりもうちょっと知りたいものがあるなっていうんで、ワープさせようみたいな、場所を変えようみたいなのがあって。欲求の話が序盤とかに結構あったと思うんですけど。

植村 欲求の話は伺いたく思っていました。なぜ作中では、社会的な欲望でなく、一貫して動物的な欲求が描かれるのでしょう? そういう意味では個人的なものに出発して書かれているのでしょうか?

池田 知りたいって思う欲求だったり、何かを追求したい、どこに行きたいみたいなそこをわりかし主軸においてるような気がしてて。自分が書いてる上で、じゃあこれ書いてどうなりたいのかっていうのが、自分の場合はどんどんどんどん違う世界に行くけど、同時に今生きてるところも開拓していきたいみたいな、両方。現実もだし、外の想像の世界も開拓していきたいみたいな。その欲求って何なんだろうなと思うと、知りたいもそうだけどなんでこんな求めてるんだろうなみたいな、そこの根源的なものが凄い気になってきたっていうのがベースにあるような気がしますね。

植村 欲求にフォーカスするというのは池田さんの他の作風からは外れていますか?

池田 たぶん突出してるような気がしますね。ゆうめいとかだと自分の名前出して自分が作演で。他の人の目線とかもかなり気にしてて、池田がこういうことをやってるってことに対して誰かが欲求を満たしてくれるようなものを作りたいっていうのはあって。なのでゆうめいでやるのは表現っていうんじゃなくて発表っていう意識がすごいあって。今までこういうことがあって、こうなってこうなりましたっていうことを発表することによって他の人の欲求を引き出すみたいな。

植村 対して、『ウエア』ではご自身の欲求が強く出されている?

池田 そうですね。自分の欲求とプラス皆が感じてる欲求っていうのをたぶん結構同列に考えて作ってるなっていうのを思ったりしてます。他の人も気になるし、でも僕も気になってることがありますよっていう。でも他の人が気になってることは別に『ウエア』の中に入ってないけど、同じようなベクトルとか同じような欲求を書いてるっていう意味ですごい同じところにいると思うんですよね。他の人はこれは気になってるけど、でも僕もこれ気になってるっていう。そういう広いところの中で書いたっていう感覚は凄いあります。

植村 個人名を出しながら同時に匿名的な書き方がやはり採用されているわけですね。

池田 そうですね。匿名的になりましたねなんか。

植村 最初に書き出されたのはニコンロとナミのシーン?

池田 あ、そうですね。一番最初に思いついてたのはそこでしたね。

植村 その時点で『ウエア』全体の構想は念頭に置かれていましたか?

池田 最初は何となくあったっちゃあった。最初の構成として、そのニコンロとナミって奴とそこに通ってた奴って三人の関係性が頭の中にあったんですけど、そこの関係性が、自分が物語にした際に何かまた別の物語にある存在だなって思って。物語の中の物語みたいな。のがあって、じゃあ何の物語がベースになってるのかっていうのはメーリスだなっていうのはなんとなくイメージがあった。根っこの部分としてはそうでしたね。ドラッグだったりそういうのをやるのが、なんかそういう次元に飛ばされるんじゃないかなみたいな。

植村 じゃあワープ的なものを書きたいという意識から出発してドラッグのエピソードを選ばれたんですかね。

池田 そうですね。

植村 自律訓練法は実際なさってたんですか?

池田 実際やってましたね、実際やってました。実際やってたけどうまくいく人とうまくいかない人がいて、僕全くうまくいかなかったので。

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植村朔也 うえむら・さくや
大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。

◉東京はるかに
◉東京はるかに|批評


◉ウエア|作品概要
◉植村朔也|『ウエア』イントロダクション
◉荒木知佳と櫻井麻樹|『ウエア』出演者インタビュー
◉瀧腰教寛と深澤しほ|『ウエア』出演者インタビュー
◉額田大志|『ウエア』インタビュー
◉小野彩加と中澤陽|『ウエア』メッセージ

額田大志|『ウエア』インタビュー

東京はるかにの植村です。

スペースノットブランクの新作『ウエア』上演に際し、保存記録を務めますわたくしが、音楽を担当なさる額田大志さんに直接お話しをお伺いし、インタビューとしてまとめさせていただきました。

ご自身が主宰なさるヌトミックについてもお話してくださり、7000字を超えるインタビューとなりました。2019年のヌトミック、そしてこれからのヌトミックについて。ヌトミックにのみ関心のある方にも是非読んでいただきたい内容となっております。

また、ヌトミックの直近の公演についての拙稿を掲載しておきます。
◉東京はるかに|シニカルな没入③ ヌトミック『それからの街』『アワー・ユア・タワーズ』

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額田大志 ぬかた・まさし
作曲家、演出家。1992年東京都出身。8人組バンド〈東京塩麹〉、および演劇カンパニー〈ヌトミック〉を主宰。その他、JR東海『そうだ 京都、行こう。』を始めとする広告音楽や、市原佐都子『バッコスの信女-ホルスタインの雌』(あいちトリエンナーレ2019)などの舞台音楽も数多く手掛ける。第16回AAF戯曲賞大賞、こまばアゴラ演出家コンクール2018最優秀演出家賞を受賞。2019年度アーツコミッション・ヨコハマ クリエイティブ・チルドレン・フェローシップ。

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植村朔也(以下、植村) まず、どういう経緯で『ウエア』という作品に関わることをお決めになったのでしょうか。

額田大志(以下、額田) 特に中澤さんは年齢も一緒だったりとか、業界の中でも近いところで作品を作っていて、僕とも一昨年に作品を一緒に作ったこともあって、中澤さんの主宰しているスペースノットブランクが新作を作るということで、「音楽をお願いします」ということで参加してるような。

植村 なるほど。特にこの『ウエア』っていう作品だからこそ額田さんにお願いしようということはあったんですかね。

額田 今までのスペースノットブランクは基本的に音響の櫻内さんと相談しながら音楽を決めてたみたいなんですけど、「今回は新しいチャレンジをしたい」と小野さん中澤さんから伺い、受けようかなと思いました。

植村 スペースノットブランクとしても新しい試みに出るタイミングだったからこそということですね。池田さんの原作にはどういう印象を持たれましたか?

額田 池田さんは戯曲を書くのがすごい上手くて、読んでいて、自分には書けないものだなっていうのもあるし、スペースノットブランクとしても新しいものになるんじゃないかという感じがして。また池田さん、なんか活き活きと書いてるなと思いました。筆が進んでるんだなみたいな。本当にどうでもよさそうなシーンをちゃんと掘り下げて、でもしっかり繋がってる。うまいなと。あー、うまいなと思いながら読んでましたね。あとスペースノットブランクがやるならこういうテキストだよね、というのもしっくりきました。あんまり変にどうなるだろうって言うよりかは、確かにこれをやるんだろうなって。

植村 その、これをやるんだろうなっていうのは具体的にどういう?

額田 これをおそらくスペースノットブランクがいつもの感じで、っていっていいのかよくわからないんですけど、彼らはスタイルが強くあるなと思っていて。前提とする方法論がほかの作家と違うと思っています。違いすぎて、正直まだわかんないんですけど笑

植村 額田さんとしてはどういうふうに理解されてるんですか?

額田 まだわかんないんですよね、よく。なんとなく面白そうなことをやっているなという感じがしてるんですけど、観に行っても毎回ちょっと分かんないな、とか。どうすればいいのか全然わかんないけど、そういうのをポジティブに考えて参加してみようみたいな。

植村 ここまで稽古をご覧になってどういう印象を持たれましたか?

額田 同じ答えになっちゃいますけど、分からないっていうのが一番大きいですかね、何でこんなことやってるんだろって思う瞬間も結構あって。はたしてどう作品に合致するのかとか、どうしてこれが面白くなるかみたいなことは全然わからなくて。なんでやってるんだろうなって思いながら。

植村 笑。具体的に何をしていましたか?

額田 何か他己紹介みたいなことをやっている印象があって。植村さんが話した話を自分のことのように話す、植村さんが今何か自己紹介をしたら僕が自分は植村さんだと思って話す、みたいなことをやっていました。どうなっていくのか楽しみながら参加しています。興味深く見てるみたいな感じでしょうか。普段の仕事と違って音楽のイメージも、なかなか浮かばなくて。どうしようかなみたいな感じです。

植村 現状も?

額田 あ、現状それは何とかブレイクスルーしたんですけど。小野さんと中澤さんの中に明確に鳴らして欲しい音があったので、一回それにならって作ったあとに、少し自分なりのクオリティを上げていく作業に移っていこうかなと思いました。とりあえず求められたものを作った後に自分らしさを加えていくみたいな感じでやってます。

植村 じゃあ、こういうイメージでっていう提案があったわけですね。

額田 ありました。でも、映像音楽だったり、自分のバンドの曲作ったりとか、色々な仕事がある中で、舞台音楽は一番大変で。理由としては、特に使うシーンが決まっていないこともあったり、漠然とした要求が比較的多かったり、舞台は本番直前に尺もどんどん変わっていくので、そういう難しさがあるんですけど。でも小野さんと中澤さんは、共有も素早いなというか「こういう音で」というのが明確にあったので、そういう風にまず作っていきました。やり取りとして大きかったのは、原作を読んでそのイメージを一回曲にしてくださいみたいなことがあって。なんだろう、ほんと、絵を見て曲を作るみたいなイメージですかね。比較的自由に作っていきました。

植村 自由っていうのは、縛りが緩かったということでしょうか? 原作の作り自体がだいぶ自由じゃないですか。だから、型にはまらない音楽をつくろうっていう意味で自由だったのかとも思うのですが、どちらなのでしょう。

額田 たぶん両方あると思って。スペースノットブランクってコレクティブ的な作り方をしてるなと思って。例えばテキストを俳優自身が決めたりもしているのかなあ。俳優が言ったことをそのまま舞台に使うみたいな。劇作家と演出家みたいな感じじゃなくて、わりとみんなで作っていくみたいなところがあって。多分その流れなのかわからないんですけど、僕もだからあんまり細かいことをどうっていうよりかは、自分で考えて、原作の複雑な構造をモチーフにすることにしました。原作は池田さんらしさがあるなと思っていて、人の弱さ、でも青春みたいな、青くさい感じが。そういうものも、取り入れた形です。あとは登場人物から想起したり。アニメっぽいキャラクターが出てくるので、安直ですけどアニメっぽい曲をちょっと使おうかなとか。そういう原作を読んだときに感じた構造だったりとかキャラクターだったりとか、池田さんの持っているテキストの良さかな、じめじめした感じも含めて曲に変換していくみたいなことをやってました。

植村 今回の場合は原作と上演台本が異なりますよね。稽古場とかで立ち上がっていくものと原作のどちらからイメージをつくるかっていうのが難しい気がするんですが、今回は割と原作ベースで作られたということですかね。

額田 そうですね。何となく進行を見てると、スペースノットブランクは色々な素材を集めていって、最終的になんとか「えい」ってやるタイプかな? 最後二週間ぐらいでなんとかグッて仕上げる感じなのかな? って思ってたので、頼まれてもない曲も作ったりしました。勝手に作って送るみたいなこともして、素材をこう、投げ続けておくみたいな感じです。

植村 チャットアプリの効果音も作っていらっしゃるとのことでしたが、それはどのようなイメージで?

額田 スペースノットブランクのお二人と相談したのは「その場で鳴った時にそう感じられる」ことが大事なのかなと。たとえば雷の音も作るんですけど、別に雷の音を流したい訳じゃなくて、とりあえず大きい音が鳴ったら雷の音だと錯覚するみたいな。結果的にそう作用を起こす音を作って欲しいというオーダーがありました。

植村 じゃあ、メッセージの音も、チャットアプリという文脈がなければそうは聞こえないような音で作られたわけですね。

額田 はい、そうです。

植村 では、ここからは額田さんの主宰するヌトミックについてお話をお聞きしたいと思います。僕はヌトミックの作品を最初に見たのが去年の1月の『ネバーマインド』で、ちょっと遅いんですよね。それ以降はひととおり拝見させていただいたんですけれども、2019年のヌトミックっていうのが、わりあい実験というか挑戦の年だったんじゃないかなということを感じまして。元々はミニマル・ミュージックでの経験を活かして、音楽と演劇の境界をまたぐような仕方で作品が作られていたと思うんですね。でも、そういう実験が『ネバーマインド』辺りでだいぶ尖鋭化したことで、一旦もっと素直に芝居を作る方向に去年、『エネミー』『お気に召すまま』のところで向かわれたんじゃないかと思うんですよ。『エネミー』は驚くほど素直で丁寧な一人芝居でしたし、『お気に召すまま』もシェークスピアに対して相当誠実に向き合って作っていらっしゃるなという気がして。で、それを踏まえて『祝祭の境界をめぐるパフォーム』という風に、きっぱりした名前の集大成的な実験をやって『アワー・ユア・タワーズ』で一通りの完結をみた後で、デビュー作の『それからの街』のリクリエーションや、柳美里さんとの新作へと向かっていくわけです。ここに一つの流れみたいなものを見て取ることはできるなと。

額田 おっしゃる通りだと思います。やっぱり作品を作る回数が比較的多いカンパニーだと思うので、どういう方向性で今年やっていくのかとか、来年以降どうやっていくのかみたいなことを基本考えています。直近のテーマは「演劇を作る」でした。音楽側から演劇業界に入ったので、長い間演劇の作法が分からなかった訳ですね、今もあんまりわからない時もあるんですけど。例えばなんだろう、俳優さんに何かセリフをいってもらう時に、例えば理由なく「あの」って台詞を20回言ってもらうようなことって難しいんです。ミュージシャンはとりあえず音を出すみたいなことができたりするんです。楽譜があったらそれをどう演奏するとか。俳優さんはなかなかそうはいかないというのがあり。俳優の中でも何か整理を付けないと言葉が出ない、パフォーマンスができないみたいなことが、カンパニーの問題として起き始めていたので、一回ちゃんと演劇を、俳優が立てるやり方、つまり演劇的な成立を目指していこうっていうのがこの時期(『エネミー』、『お気に召すまま』)ぐらいから強くありました。時期と言っても三か月とかですけどね。で、それから演劇としての成立をしながらも、何かより少しその先に行けるよう、せっかく音楽をやってきたけど、演劇的になりすぎた気がして、今はその先を今年から来年にかけて探りたいなと思っているところです。カンパニーメンバーも増えて方法論みたいなものが、ものを作る土台みたいなものができていて。土台っていうのは自分がどういう風に話したら伝わるのか、俳優さんがどうやったら立てるのかっていうことがカンパニー内では比較的共有できているので、それをベースにしたカンパニー内の上演の方法論を更新していきたいと思っています。

植村 じゃあ『エネミー』と『お気に召すまま』の2作品を通して、ひとまず俳優があてもなく台詞をいう状態ではなくて、何かしらの整理をつける段階には進めた?

額田 いや、まだまだです。今も考えながら進めてます。恐らくは、理由をつけるみたいなことだと思うんです。例えば「あの」をお客さんに向かっていうことで、お客さんと会話しているみたいな感じにしたいとか、全部違う方向を向いて、色んな人がいると思って言うとか。何でもいいって言ったら怒られますけど、一旦何か舞台に立てる理由を考えて、それをハッタリでもいいのでやっていくみたいなことを続けてきたんです。でも、それがハッタリだと良くないなと思っていて、ハッタリじゃなくても成立するのが演劇としてうまくいっている状態なのかなと。

植村 他の舞台芸術と違い、俳優は演技をすることもあって、なんらかのコンテクストを必要とするから、それがヌトミックが演劇を考える時に重要になってきたと。

額田 そうですね、どう舞台に立つのかとか、何で俳優がやるのかとか。

植村 何で俳優がやるのか、っていうことにはある程度の答えは見つかっていらっしゃるんですか?

額田 ないですね。まだないです。

植村 けれど額田さんはあえて音楽から演劇の方を志向なさったわけですよね。

額田 演劇っていうことにあまりこだわってはいないんですけれど。いつのまにか演劇になっているみたいな危機? を感じてます。

植村 演劇として作ってるつもりがないっていうのは、キャリアの最初の方からですか?

額田 そうですね、でも昨年に一度しっかり演劇を作ろうと。

植村 なるほど、『ネバーマインド』ぐらいからお芝居やるか、ってなって……。

額田 そうですね。でもこれも去年1年の話なのですごい短いですけど。

植村 そうですね。でもその1年の間でも結構ダイナミックな動きが特に目立った劇団だったとは思います。『ネバーマインド』という作品は「これは演劇ではない」という企画の一つとして発表されたわけですけど、そこから演劇を意識しだしたのはなんだか面白く感じます。

額田 でも逆に言えばこれが一番芝居っぽいなと思ってて。なんで芝居なのか、どうやったら芝居になるんだみたいな話を考える訳なんですよ。この時の作業は、基本的には芝居としては受け入れられないものが、どうやったら芝居になるのか、というのを皆で考えて、逆に一番演劇をやっていた気持があります。

植村 柳美里さんが戯曲を書き下ろす『JR常磐線上り列車』(仮)以降、今年、ヌトミックはあまり目立った新作を創るつもりがおありでないとお聞きしたんですが。

額田 今年ですか。はい。いや、やるつもりがないって言うか、時期が合わない、みんなのスケジュールが埋まってるってだけなんですけど。

植村 今後のヌトミックがどういう方向に向かっていくのかっていうビジョンというのはおありですか?

額田 柳さんの戯曲以降、カンパニーとしての舵を大きく切るタイミングかと思っています。現状は俳優さんが所属していますけど、もう少し広くパフォーミングアーツをやる団体として、再始動したい。演劇と名乗ることによる難しさもあるんですよね、当たり前ですけどお客さんも演劇を見るモードになるので。2021年に企画してる上演は、より音楽の分野に足を踏み込んだ作品になると思います。

植村 演劇っていう枠にとらわれないで活動するという時に、やっぱりこう何かしらの界隈というか業界は前提する訳じゃないですか。ぱっと思い付くのはコンテンポラリーダンスとかあるいは音楽とかなんですけど、どういう場所を目指していくかという見取り図はあるんですか?

額田 今あるのは、これまで続けてきた演劇のスタイルの中に、日本であまり知られていない音楽のスタイルを取り入れることができないかと思っています。例えば、メレディス・モンクの発声で俳優が発話したり。これまでのヌトミックは領域横断と評されたりもしてきましたが、そんなに横断できてなかったと思うんですよ、実際のところは。

植村 そうですか? 受け手というか、僕からするとそれは意外です。

額田 でも演劇のお客さんが今はまだ大半だったり、上演も劇場を使用することも多いので。もう少し捉われずに上演を実施できないかと思っています。

植村 じゃあ、内容というよりは受容のされ方が演劇としてのみ捉えられてるから、横断的ではないと。

額田 うーん、そうですね。もう少し演劇のフィールドとの付き合い方を変えていきたいところです。作品は作るけど、それをどんなお客さんの前で上演するかは考えていきたい。

植村 なるほど。やっぱりお芝居を上演なさることは、額田さんは凄い好きなんだろうなっていう感じがやっぱりお話をお聞きしていてあるので、作品を作っている上での手応えみたいなものはあったんですか? 

額田 あでも、一応毎回何かしらはあります。失敗と成功が半々ぐらいで常にあるみたいな状態です。

植村 その成功と失敗の内容を具体的にお聞きしてみたいです。『アワー・ユア・タワーズ』ではどうだったのでしょうか。

額田 成功はフォーマットをちょっと特殊なことをやってみたので、自分たちの目指す劇空間みたいなことに対して強くフォーカスを置いたので、それは自分でも設計はかなりうまくいったなと思って。上演の時の見方みたいな。僕がっていうよりはこれ、舞台監督の河村竜也さん(青年団)や、ヌトミックのメンバーからのアイデアが多いんですけど。何か様々な行動をするとか、こういう風に動いたらうまくいくとか、空間も含めた設計をこう全員できたことが一つの成功としてあるし、フォーマットとしてこれ多分使えるなみたいな。空間を観客が移動する体験として、成功と言えるんじゃないか。反省点は、今思えば、軽くし過ぎたかもと思ったり。その軽さがよかったと思いながら、流石にもう少し強いテキストを使うべきだったかなみたいなことも後で思ったりはしたりします。

植村 客席を固定せずに場所を抽象的に扱うようなフォーマットは、次回の柳さんとの作品にも受け継がれていくんでしょうか。

額田 どこまで可能になるかはちょっと分からないんですけど。似てると思います。

植村 なるほど、楽しみですね。最後に改めて額田さんが『ウエア』に感じているところをお聞きしたいです。

額田 思い入れみたいなことですか? あ、でも分かりやすい思い入れとしては、池田さんも同い年なんですよ。92年生まれで、27歳で、なんかそういうのはいいなと思いました。あとそれぞれどこか共通するところがあって、池田さんは彫刻、小野さんはダンス、中澤さんは映像をやっていたり、それぞれが他のスタイルを経由して演劇にたどり着いたことだと思います。作風も違うので、お互いがお互いの作品をたまに観に行くぐらいの距離感で、コラボレーションは初ですけど、「わかんない」っていうことをしっかりと受け入れながら作るのは風通しがよいなと思ってます。

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植村朔也 うえむら・さくや
大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。

◉東京はるかに
◉東京はるかに|批評


◉ウエア|作品概要
◉植村朔也|『ウエア』イントロダクション
◉荒木知佳と櫻井麻樹|『ウエア』出演者インタビュー
◉瀧腰教寛と深澤しほ|『ウエア』出演者インタビュー
◉池田亮|『ウエア』インタビュー
◉小野彩加と中澤陽|『ウエア』メッセージ

瀧腰教寛と深澤しほ|『ウエア』出演者インタビュー

東京はるかにの植村です。

スペースノットブランクの新作『ウエア』上演に際し、保存記録を務めますわたくしが、出演者のみなさまにLINE上でいくつか質問をお送りし、簡易的なインタビューとしてまとめさせていただきました。



瀧腰教寛 たきごし・たかひろ
俳優。1985年2月23日生まれ。石川県七尾市出身。2007年から2018年まで〈重力/Note〉に参加。俳優として、新聞家『失恋』『フードコート』、山本伊等『配置された落下』、スペースノットブランク『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』『フィジカル・カタルシス』『すべては原子で満満ちている』などの作品に参加している。

瀧腰教寛さんは、スペースノットブランクの公演にこれまでも度々参加しました。初参加の『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』での熱演はいまも鮮やかに思い出せます。わたくしは瀧腰さんに、いくつかの質問をお送りし、そのうち答えたいものにだけ回答していただくことをお願いいたしました。

────稽古場で楽しかった瞬間はありましたか?

けっこう、あります。 舞台の捉え方や生活と表現との距離のとり方などがそれまで関わってきた人たちと違い、
初めて関わった昨年3月の北沢タウンホールでの公演(ことみち※『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』の略称)は稽古場から驚くほど楽しかったです。
今回は初期の質問の時間が楽しかったです。

────お客さんにはどのようなポイントに注目してもらいたいですか?

気兼ねなく自由な気持ちで見に来てもらえたらと思います。
見に来てくれるかたもまた、観劇中、後の選択は自由だと思うので。

────『ウエア』の物語に何を感じますか?

一見 、怖いのですが、人と人の幸福な繋がり方かもと最近思いはじめてきました。
いや、やっぱ違うかな



深澤しほ ふかさわ・しほ
俳優。1990年生まれ。映画美学校アクターズ・コース第5期修了。2018年より額田大志主宰の〈ヌトミック〉に所属し、以降のすべての作品に出演。俳優として、ゆうめい『巛』、玉田企画『かえるバード』、ニカサン『うまく落ちる練習』、ひとり多ずもう『蒼く戦ぐ』(演出:福名理穂、監修:松井周)などの作品に参加する他、心理学実験の現場(中村航洋ほか『形態測定学的アプローチによる表情表出の時空間的パターン解析』)で俳優の視点からアドバイザーとしても活動している。

深澤しほさんは、所属なさるヌトミックのほかにも、幅広い公演に出演なさっていますが、スペースノットブランクの公演に参加されるのは今回が初めてです。わたくしは深澤さんに、いくつかの質問をお送りし、そのうち答えたいものにだけ回答していただくことをお願いいたしました。

────直近のご自身の参加された公演から『ウエア』にも反映された要素はありますか?

共演者とリズムを作っていくことやグルーヴしていく感覚を共有することはヌトミックでやっていることを引き継いでいる気がします。稽古を重ねていく中でこれからもっと高めていける気がしています。楽しみです。

────シンプルに辛かったことはありましたか?

脳も身体も筋肉を使うので毎回非常に疲れます。ただこの経験は糧になるものと信じていますのでやりがいはあります。

────稽古場でご自身の個性を実感した場面はありましたか?

台詞とは別に振り付けがあるのですが、そのとき無意識に日常の自分の身体が反映されます。自分で意識できる丁寧さは最後まで保ちつつ、自分の身体はそのままに作品の中で活かせればいいなと思います。自分の可動域を認識していく作業はおもしろいです。


植村朔也 うえむら・さくや
大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。

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◉ウエア|作品概要
◉植村朔也|『ウエア』イントロダクション
◉荒木知佳と櫻井麻樹|『ウエア』出演者インタビュー
◉額田大志|『ウエア』インタビュー
◉池田亮|『ウエア』インタビュー
◉小野彩加と中澤陽|『ウエア』メッセージ

植村朔也|『ウエア』イントロダクション

植村朔也 うえむら・さくや
大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。

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写真が登場したころの絵画がそうであったように、斜陽にさしかかったメディアは自身の表現特性を主題化します。生きる意味が感じられなくなって、自分のアイデンティティの輪郭を掴もうと苦悩する青年のように。そして演劇はその純粋な形式性を守るに際し、自然とドラマを放棄することになるのです。映画や小説もドラマを表現しうるのですから、もはや物語は演劇の表現特性とは言えません。この、東京におけるポスト・ドラマ的な動向を恐ろしい勢いで加速させたのがスペースノットブランクです。
絵画について言えば、写真だって現実や空想を表象することが出来るのですから、対象を描き出す機能よりは、絵具やキャンバスというメディウムがその表現特性だということになるはずです。キャンバスを青一色で塗りたくるような現代美術は、絵画の形式性それ自体を現前させようとする傾向の帰結だというわけです。では、演劇の形式、演劇のメディウムとはいったい何でしょう。
俳優。テクスト。劇場空間。などなど様々な答えがあると思うのですが、僕は「舞台」という概念それ自体をいったん答えとして措定してみたいです。俳優、観客、戯曲、演出、音響、照明、舞台美術、劇場空間、制作、広報などなど、その場の生成に携わった種々の自律的な仕事の綜合としての舞台。それらが錯綜し、醸成されて成立する場としての「舞台」を、演劇というメディアの形式と考えたいのです。俳優やテクストを演劇の核心的メディウムとすることは、舞台に現れる他の存在を無視して、嘘をついているようですから。
この「舞台」それ自体を主題化する試みを様々に行ってきたのがスペースノットブランクなのだ、というのが僕の理解です。たとえば、俳優は特定の役を演じるのではなくて、俳優その人自身として舞台に立ちます。俳優その人の姿を、舞台芸術のメディウムとして表出させているわけです。またそのテクストも、各々の発話をに虚実を交えて構成したもので、ドラマ性よりも、共有された時間それ自体を扱うことに注意を向けたものでした。
スペースノットブランクはもともと身体表現を主とする領野で活動していた二人が展開するコレクティヴです。身体表現をはじめとするダンスなどは一般に、なにかの物語やメッセージを伝えることよりも、その身体自体の魅惑的な現前に心血を注いだものでしょう。
ドラマを離れ、舞台芸術のありようを突き詰めていく真剣さに、スペースノットブランクの魅力を見て取ることができます。

けれども、彼らが「舞台三部作」と総称する作品群、特に昨年の夏に上演されたその三作目、『すべては原子で満満ちている』という傑作により、その試みは一定の達成を迎えます。これを踏まえて、スペースノットブランクは新たな方向へ舵を切ろうとしているようです。
彼らは、「舞台」というメディウムのありようを追求した上で、より強いドラマを改めてそこに立ち上げていく道へと進みます。
昨年の秋に高松で上演された『ささやかなさ』では、テクストにコレクティヴ外の他者(松原俊太郎さん)によって書かれた戯曲を採用しました。松原さんの戯曲は豊かなドラマを含んでいました。それに、普通物語を上演するに際しては、俳優は登場人物を演じる「役者」にならざるを得ず、そこでは俳優という存在は「役」の陰に隠れてしまいます。スペースノットブランクにとってこれはあらゆる意味で冒険的な試みだったわけですが、彼らはここに代弁の構造を持ち込みました。すなわち、俳優はあくまで「役者」ではなく「出演者」として、『ささやかなさ』の物語をその声や身体を記号として伝達するメディウムとして、そこに立ったのでした。(詳細は東京はるかにでの拙稿をご覧ください。)
◉東京はるかに|テクストの宙を漂え──スペースノットブランク『ささやかなさ』評

さて、新作の『ウエア』です。ゆうめいの池田亮さんが執筆なさった原作を素材として新たにテクストを準備し、上演します。音楽はヌトミックの額田大志さんが担当なさいます。同世代の話題の作家陣の共作という点でも、注目の舞台と言えます。また出演者も、これまでスペースノットブランク作品に複数参加してきた荒木知佳さん、瀧腰教寛さんに、初出演となる櫻井麻樹さん、深澤しほさんを加えたフレッシュな構成です。僕もスペースノットブランクの一ファンとして、それぞれの個性がそれぞれに溶け合う空間としての「舞台」が新宿眼科画廊に立ち上がる瞬間が楽しみでなりません。
『ウエア』。近頃、服を脱ぎ着するような気楽さで役を演じ変えてゆく舞台作品が目立ちます。そんなの昔からそうじゃないか、との声もあるでしょう。けれど、やはり現在の小劇場演劇シーンでの主体の流動性には目を見張るものがあります。俳優は登場人物のスイッチを明示せず、シームレスに別の状態へと移行していくのです。
ですが、現実の社会に照らしてみれば、おそらくこれはそう目新しい事象ではありません。コミュニティによってキャラを自然に使い分ける人々。はまだ自身の身体性には嘘をついていないけれども、匿名掲示板やオンラインゲームで年齢や性別を詐称する人々、話題になったツイートをコピー&ペーストして自分もまた注目を集めようとパクツイする人々については、完全に主体の輪郭が溶け出してしまっています。
『ウエア』もまた、こうした移行を描き出します。
原作は、池田さんが実際に使われなくなったメーリスへ送信したメールの集積から成ります。それを舞台に載せるわけで、『ウエア』にはメール演劇としての側面があるわけです。しかもそのメールは、様々なメディアや嘘を含んで複雑に重層化しています。これまで映像の利用を意識的に避けてきたスペースノットブランクが今回初めて映像を作品に用いるのも、おそらくは原作のマルチメディア的な性格がその背景にあるはずです。加えてメールに書かれたシナリオも、岡正樹、須田学という二人の登場人物の、冗談交じりの嘘ばかりのメールのやり取りを主軸として展開するため、現実と虚構と虚構の中の虚構とが輻輳し、主体も輻輳しています。
岡と須田は、須田がディレクターを担当する映像配信企画のメンバー同士としてその仲を深めたのですが、その企画が終わってしばらくたった後、須田のもとに岡から奇妙なメールが届きます。須田も最初はあまり真剣にとってはなかったのですが、岡の奔放な語りに引き込まれてゆきます。そして、やがて二人は物語に現れる、ある存在に呑み込まれてゆくのです。物語は多分にユーモアを交えながら、なにが真実かわからない入り組んだ現実において、匿名的なキャラクターの存在へと個人の輪郭が溶け出してゆくことを描いています。
では、そこで俳優はどのように存在するのでしょうか。あくまで登場人物には同化せずに俳優その人自身として立つのでしょうか。それともその顔は作中に描かれるキャラの陰に後退してゆくのでしょうか。この俳優の身体の拮抗状態において為されるドラマティックな冒険を、ぜひ共有しに向かいましょう。


◉ウエア|作品概要
◉荒木知佳と櫻井麻樹|『ウエア』出演者インタビュー
◉瀧腰教寛と深澤しほ|『ウエア』出演者インタビュー
◉額田大志|『ウエア』インタビュー
◉池田亮|『ウエア』インタビュー
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荒木知佳と櫻井麻樹|『ウエア』出演者インタビュー

東京はるかにの植村です。

スペースノットブランクの新作『ウエア』上演に際し、保存記録を務めますわたくしが、出演者のみなさまにLINE上でいくつか質問をお送りし、簡易的なインタビューとしてまとめさせていただきました。



荒木知佳 あらき・ちか
俳優。1995年7月18日生まれ。俳優として、FUKAIPRODUCE羽衣『愛死に』、歌舞伎女子大学『新版歌祭文に関する考察』、theater apartment complex libido:『青い鳥』、スペースノットブランク『緑のカラー』『ラブ・ダイアローグ・ナウ』『舞台らしき舞台されど舞台』『すべては原子で満満ちている』などの作品に参加している。

荒木知佳さんは、スペースノットブランクの公演にこれまでも度々参加しました。『すべては原子で満満ちている』での演技は特に印象深かったです。わたくしは荒木さんに、いくつかの質問をお送りし、そのうち答えたいものにだけ回答していただくことをお願いいたしました。

────稽古場で楽しかった瞬間はありましたか?

櫻井さんが、瀧腰さんを肩車して、パフォーマンスをしてくださった時、2人が似ているのでめちゃくちゃ面白かったです。
植村さんが稽古に参加してくれた時も楽しかったです。

────新作について、これまで参加されたスペースノットブランクの作品との違いを感じることはありましたか?

原作が作品として完成していて、そこからつくるというのは初めてなので、新鮮な気持ちです。
最初に原作をみんなで読むところからはじめるというのは、いつもと違いました。今でもどういう作品になるのかわからない状態で、楽しみです。

────稽古場でなにか辛かったことはありましたか?

深澤さんと顔があってしまうとツボに入って、2人で笑ってしまうことです。パフォーマンス中なのに笑ってしまって、笑いすぎてお腹が辛かったです。深澤さん楽しいです。

────お客さんにはどのようなポイントに注目してもらいたいですか?

瀧腰さんと、櫻井さんが似ているところ

────直近のご自身の参加された公演から新作にも反映された要素はありますか?

チルチルミチル

────『ウエア』の物語に何を感じますか?

こわいです。とっても。
いつか、顔からマスクが剥がれて、違う顔になるんじゃないかと思います。
それか、顔から顔がなくなるんじゃないかと思う。



櫻井麻樹 さくらい・まき
俳優、演出家、パフォーマー。1979年1月11日生まれ。俳優、パフォーマーとして、燐光群『カウラの班長会議 side A』、ダヴィデ・ドーロ『The Secret Story』、ジュリー・アン・スタンザック『思いを馳せる月』、プマシ国際演劇舞台芸術フェスティバル『Come, Hold My Hand』、小池博史ブリッジプロジェクト『Fools on the Hill』など国内外の作品に参加する他、NHK『龍馬伝』『つばさ』、EX『臨場』などの映像作品にも参加している。

櫻井麻樹さんは、小池博史ブリッジプロジェクトなど数々のカンパニーの作品に出演なさっていますが、スペースノットブランクの公演に参加されるのは今回が初めてです。わたくしは櫻井さんに、いくつかの質問をお送りし、そのうち答えたいものにだけ回答していただくことをお願いいたしました。

────スペースノットブランク特有の演技し難さを感じることはありますか?

感じますね。
身体の状態というのを本当に繊細にみているというのがまず第一の印象で、僕の感覚でしかないのですが普段はストーリーがあってキャラクターや場所があってとか色々な所から集めて重ねて作っていくのですが、ここでは生身の自分をためされるというかそこにある生の空間や他者と自分の身体、そこから生まれる素直な感覚を重視するというそんなイメージがあります。

────稽古場で楽しかった瞬間はありましたか?

楽しさと苦しさは紙一重ではありますがこんなやり方で作品を作る団体があったんだ! と自分の感覚とは違う新感覚な体験をしたとき。(純粋に次に何が出てくるかわからないわくわく感です)

────シンプルにつらかったことはありましたか?

今までの自分の経験や思考があるがゆえにそれが時に邪魔をして身体と心がノッキングを起こす事ですかね

────『ウエア』の物語に何を感じますか?

色々な物が含まれているとは思いますが
最初に感じたのは、自分が自分であるということを見失う怖さです


植村朔也 うえむら・さくや
大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。

◉東京はるかに
◉東京はるかに|批評


◉ウエア|作品概要
◉植村朔也|『ウエア』イントロダクション
◉瀧腰教寛と深澤しほ|『ウエア』出演者インタビュー
◉額田大志|『ウエア』インタビュー
◉池田亮|『ウエア』インタビュー
◉小野彩加と中澤陽|『ウエア』メッセージ

2020年のごあいさつ

2019年はいくつかの場所でいくつかの作品を上演しました。

人が動くと場所は遠ざかり、また動くと場所は近づき、距離を味わう2019年でした。

なによりも作品を一緒に作ることを選んでいただいた皆様に大きな感謝を。
そして作品を見ようと動き、場所から場所へ訪ねていただいた皆様に大きな感謝を。

2020年もいくつかの場所でいくつかの作品を上演します。

時間を注ぎ、舞台芸術のユーザーエクスペリエンスを検討して制作と上演を重ねます。
あらゆるスケールであらゆる実験を行ない、成功と呼ばれる失敗もその反対も恐れずに、革新と日常を生み出すための研究を重ねます。

まずは3月の新作『ウエア』からはじめます。
新宿眼科画廊のスペース地下にて粛粛と上演する予定です。

どこかの場所でまた会いましょう。

2020年もよろしくお願いします。

2020年1月1日 水曜日
小野彩加 中澤陽


◉ウエア|作品概要