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光の中のアリス|推薦・応援コメント

映画の予告編ってあるじゃないですか。あれって、観客の「本編を観たい」という欲求を掻き立てるよう工夫して作られていますよね。で、実際に映画本編を観てみると、そこから受けた“感じ”と、予告編から受けた“感じ”に、隔たりがあったりします。時として全く別の作品みたいです。もちろん、予告編と本編は別のフィルムなのだけれど、じゃあ、本編と矛盾したことで今や“嘘”となってしまった、予告編だけが持っていたあの“感じ”は、観客を欺くためのフェイクに過ぎなかったのか。物語にまで達しないけれど、しかし本編よりも深刻に僕を魅了し、本編から逸脱する妄想や快楽を僕にもたらしたあの“感じ”。ラディカルでスタイリッシュな、あの何かです。それは僕にとって、予告編というプロモーションの副産物ではありません。ある種の“本編”そのものなんです。誰も言葉にしないから夢みたいに儚いその代物を、見事に捕まえた人たちがいます。スペースノットブランクです。これは、あなたがあの時探していた何かです。あるいは、あなたがこれから発見する“感じ”です。どうぞお楽しみください。

鴻池留衣氏[小説家]


初めてスペースノットブランクを見たのは表参道のスパイラルで、身体と言語がミックスされた特異な空間だったのを覚えている。スペースノットブランクというその名前の様に、空間は決して空白ではなく、常に時間は流れ続けていてつまり重力は掛かり続けて、次の空間へと全てが動き続けている。何もない空間に思えるスペースに形のない言葉と何も残らない運動が通り過ぎた後に残るのは消して空白ではなく、伸び縮みした時間つまり一瞬の揺らいだ重力の痕跡が残っているのを感じられるはずである。今回の上演もその独特な時間がロームシアターの空間を埋めるのを楽しみにしています。

敷地理氏[振付家・演出家・ダンサー]


スペースノットブランクを見ていると、あぁ、自分は一体何を体験しているのだろうと、困惑する瞬間が何度もある。

しかし、その上演で見た景色は、翌日、翌々日、一週間後、半年後、一年後になっても、まだ脳裏で蠢いている。忘れたいのに、忘れさせてくれない!

私の歴史に、否応なくスペースノットブランクが刻まれてしまった。舞台芸術の歴史に刻まれる日も、そう遠くないと思う。

額田大志氏[東京塩麹/ヌトミック]


わたしはこれまで、スペースノットブランクの作品として1作品、昨年の利賀村のコンクールで、お二人連名の作品として1作品観たことがあります。
どちらも、「舞台の上で何事かを表象する」ことの困難と希望を感じさせてもらったことを覚えています。
なにかにつけ制約の大きい舞台の上で、言葉と身体をかけてどう自由に飛躍するのか、そして、再び着地するのか、舞台作品の原点ともいえる部分へのこだわりとヴィジョンこそスペースノットブランクの面白さなんだと思っています。
ロームシアターでの上演、いち観客として、とても楽しみにしています。

野村眞人氏[劇団速度/演出家]


演劇を見ていてよくわからないものやことを目の当たりにすると、一旦俳優の靴を見るという習慣が最近ついている。意識の重心を下げて、解像度の高いよくわかるものを視界に入れることで、よくわからないものやことを特定のなにかに帰属させることなく、宙に漂わせたまま関わることができる。靴は舞台上にあるものの中で一番よくわかる。ナイキであればあるほどよくわかる。どれだけ身体や言葉が信用できなくても、俳優の履いている靴そのもの、身体の押す力と地面の押し返す力が重なるこの境界面は信用できる。

だから、今度はスペースノットブランクの靴とノースホールの床に注目して観てみたい。別に冷やかしているつもりもミスリードをしているつもりもない。スペースノットブランクの舞台は「立つ」ことの上に成り立っていると思う。スペースノットブランクの俳優は他でもなく「立つ」ために立っているし、強い意志を持って靴を履いたり履いてなかったりしているように見える。床のレベルから表現を立ち上げる人たちは信用できる。

福井裕孝氏[演出家]


こう書くこと自体、すでに何度目かだが、スペースノットブランクとの出会いは私にとって衝撃的なものだった。
過去十年以上、私は膨大な数の舞台芸術を鑑賞し、多くの新しい才能を見知ってきたが、スペノは間違いなくその中でも際立って非凡な作品世界を鮮やかに示していた。
最初の印象は「これはいったい何なのか?」「どうやったらこんなことがやれるのか?」というものだった。
それから私は可能な限り、スペノの上演に立ち会ってきた。驚くべきことに、彼らはその独自のスタイルを果敢に、大胆不敵に押し進めていった。持続と変化を併せ持った、目線の異様に高い終わりなきワークインプログレス。
いま現在、私がスペノに抱いている思いは「いったいどこまで行くつもりなのか?」「この先に何があるのか?」というものだ。
天才松原俊太郎との二作目のタッグの初演が、またもや東京じゃないなんて、京都でだなんて、なんてことだ!

佐々木敦氏


小野さんと中澤さんと初めてお会いしたのは、本多劇場主催の若手支援企画「下北ウェーブ2018」でした。翌年には、「ラフトボール2019」というショーケース公演にもお誘いいただき、再びご一緒させていただきました。いつもとても近いところで刺激をもらっていて、いつもとても贅沢なポジションだなと感じております。

わたしにとって、スペースノットブランクの作品は、知らない世界の扉をぱーん!と開け放たれる体験です。そこに嫌な感じや不安な感じはなく、むしろ新しい風や光が入ってきて気持ちがいい。出不精な人間なので、そのような作品に出会えることの有難さを、毎回劇場で噛みしめております。

京都での新作もとても楽しみです。応援しております!

中島梓織氏[いいへんじ 主宰/劇作家・演出家・俳優]


スペースノットブランクは正体不明だなぁ。何が出自かわからないけど、多くの人が決まっていると思っている演劇のルールを変えていくことを愉快そうにやっている。
演出2人いるってどういうこと?戯曲賞に6人連名ってなんなんだ。愉快だ。東京でしか観れないかと思いきや、豊岡、静岡、鳥取でも観れる機会をつくった愉快だ。
京都には社会状況のせいで来れなくなっていたけど、ついに来るんですね。どっかが拠点じゃないとダメだなんてルールは変えてくれる愉快さを期待して観に行きます。

若旦那家康氏[コトリ会議/ROPEMAN(42)]


スペースノットブランクとはいろんな事業やコンペで名前が並ぶことも多く、かながわ短編演劇アワード2020で出会ったときには互いに「お噂はかねがね」と言い合った……ような気もするし、演出家も2人体制で共通項が多い。作品は未見ながら不思議な縁を感じていた。
KAATで初めて『氷と冬』を観劇し、ほとんど反射で良いとは思わなかった。が、それはiPhoneが登場した時、ガラケーの撤退を予期できなかったような感覚に似ていて、とにかく「作品をどうやって作っているのか」がまったくわからなかった。
『舞台芸術の既成概念に捉われず新しい表現思考や制作手法を開発しながら舞台芸術の在り方と価値を探究している』だけは、あるな、と思った。
あれは紛れもなく「新しかった」し、そもそも「新しいもの」には良いも悪いもない、から「新しい」のであって、「新しいこと」それ自体にもう価値がある、とも思った。舞台芸術を更新しかける、というのは並大抵なことではない。
スペースノットブランクはたぶんそういうことをやっていたんだと思う。

その探究が、どれほど難しい旅かも想像に難くない。
だからめちゃくちゃ応援したい。

岡本昌也氏[安住の地/演劇作家・映像作家]


もしかしたらご本人達は、別の意味やもっとすっきりした表現を用意しているかもしれないけれど、スペースノットブランクという名称を私は勝手に「空いているんじゃありません、空けてるんです」と解釈している。だから最初は、これはちょっと理屈っぽい人達なのかなと身構えたりもしたが、創作のスピードも作品のクオリティも、理屈で済む小ささではなかった。1作ごとに変化するし、似た例がないから「こういう作風で」と説明するのは難しいが、毎回、脳と体を使い尽くしているのはよくわかる。確かにコンセプチュアルだけれど、あえて“空けてある”場所に彼らが最後に入れるのは生きている身体だ。客席で脳をかき回されたあと、そこにいつも打たれている。

徳永京子氏[演劇ジャーナリスト]


小野さん、中澤さんの暮らし方の中からも醸される創作上の原資が感ぜられます。
河井朗さんが演出なされた、お二人が出演するパフォーマンスを一度拝見しましたが、モーションや時間の流れ方が希有に思いました。機動性ということにおいても、特別なものを感じます。
私たちが運営するTHEATRE E9 KYOTOにて、本年8月に上演を実現できなかったことが、申し訳なくまた悔やまれます。
12月のロームシアター京都での公演では、気鋭の劇作家松原俊太郎氏と共作とのこと。
新しい時代の舞台芸術が切り開かれるのだろうと、楽しみにしています。

あごうさとし氏[THEATRE E9 KYOTO 芸術監督]


客席からスペースノットブランクを観るたびに思い出すことがあります。
周りは熱狂しているけど自分は冷めに冷めきってて、なのに忖度なのか保身なのか冷え切った自分を内に内に押し込み同調しなければならない、いやむしろ本当に熱狂してんだと思いこみ過ごした生活や仕事での後悔の数々です。
「媚売りめ、言いたいことを言う度胸もないのか」と言われてないのに言われてるような気がして劇場から家へ帰ります。
ベッドで目を閉じ、よく分かんないけどなんか焼きついちゃってるシーンを思い出します。この夢虚な時、ようやく押し込めた自分が出てきて、過去もスペノもいろんなことも褒めたり貶したり。
スペノを観た日は特に「真剣な人や不真面目な人を嘲笑っても尊敬しても、古いなと、新しいと、なんでも思ってもいいよ、むしろいろいろ思えよ」となんだか正直にさせてくれて、それは自分にとって結構必要なことで。
今年の3月に上演した『ウエア』の原作もスペノだから思うがままに書けました。楽しかった。そしてスペノによって立体化された舞台は恐ろしいほどの再現度とパッパラパーかよと思うほど再現してない度で浮き上がっていて。笑いました。どっちにも答える。確実に彩加と陽はそういない優れた演出家、パフォーマー。
スペースノットブランクは自分にとって、新品しか置いてないリサイクルショップみたいな場所。
それは初めて観た時からずっと変わってません。

池田亮氏[ゆうめい 代表/脚本家・演出家]


スペースノットブランクの作品は、どれも得体がしれない。掴みづらく、言葉にしづらい。それでいて、毎回なぜか見入ってしまうし、また次も見たい、と思わせてくれる。
そんなスペノが今度、松原俊太郎の言葉を演出するという。松原俊太郎の言葉も、だいぶ得体がしれない。この異色かつ挑発的な組み合わせは、まったく見知らぬところに私たちを連れて行ってくれるはずだ。大いに期待したい。

相馬千秋氏[アートプロデューサー]


僕は彼らと4年間共に制作をしてきて、常々思っていたのですが、スペースノットブランクの作品が本当に面白過ぎて、どうにかして京都の地で上演してもらえないか、京都の演劇シーンと呼ばれているものを、破茶滅茶の滅茶苦茶にかき乱してくれないかと切に願い、画策していました。それは東京から新しい演劇文化を招き入れることによる化学変化とかそういう話ではなくて、彼らの作品は常に形態を変容させ、いま現在演劇と呼ばれるものがどのようにして形成されていったかを垣間見る機会となり得るからです。
しかしそんな僕の画策虚しく、彼らは迷い込んだのか、光を探しに来たのか、ロームシアター京都にやってきました。
京都の皆さんこれはチャンスです。これから世界中のありとあらゆる空白を空間に変えるスペースノットブランクと劇作家松原俊太郎氏との最新作。観て損はなし。なぜなら今回の上演は皆さんも無関係ではないのです。彼らはこんなご時世と言われ生まれた空白の時間を光で埋め尽くしてくれるのですから。

河井朗氏[ルサンチカ 主宰/演出家]


京都の劇団安住の地の中村と申します。
まだまだ若輩者なので言葉を寄せることは僭越なのですが、初の京都公演ということで、微力でもお力添えになれば幸いです。
スペースノットブランクさんをはじめて拝見したのは、今年3月の「かながわ短編演劇アワード」でした。広い空間を“役者4人とマイクスタンド”という簡潔な舞台で使っていて、その舞台美術から作り手側のある種の「覚悟」が見えて気持ちよいなあと思った記憶があります。
ところで、わたしは疑いをもっている人が好きです。疑うというのは「物事を信じない」ということではなく「ほんとうにこれでよいか、もっとなにかあるのではないか」というポジティブな探求心という意に近いです。それでいうと、かながわの作品の時に「疑いをもってらっしゃる」という印象を受けました。
ごくごく個人的な見解ですが、京都演劇まわりは「疑いを持つ体力がある」人が多い気がします。
スペースノットブランクさんが京都で上演をされること、なにか面白い相乗効果が起きる可能性をもっているなとワクワクします。
まだまだ色んな対策を要される状況ですが、京都での公演がよりよいものとなりますよう心から応援いたします。

中村彩乃氏[安住の地 代表/俳優]


アルフレッド・ヒッチコックの映画以外で初めてこんなに人と人が顔を近づけながら話す作品を見ていると思いました。相手の息をそのまま吸っているような距離。しかもそれは映画ではなくて舞台でした。スペースノットブランクの『ウエア』。それは作品の冒頭で、この二人のやりとりが最後までずっとつづいてもいいと思いながら見ていました。作品には終わりがあるから寂しいです。寂しいからその二人に自分が作る映画に出演してもらいました。その一人の荒木知佳さんは『光の中のアリス』にも出演しています。スペースノットブランクのおかげで私の映画もあります。いつか京都でも上映するはずですが、知らずに見たら同じ人とはきっと気づけないと思います。スペースノットブランクの舞台に立つ人たちは人間という装いを脱ぎ始めた生き物のようで、出会うとびっくりします。

杉田協士氏[映画監督]


光の中のアリス|作品概要

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ラブ・ダイアローグ・ナウ|植村朔也:イントロダクション

植村朔也 うえむら・さくや
大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。


スペースノットブランクは小野彩加さんと中澤陽さんが舞台を制作するためのひとつの場のようなものですが、そこから生まれてくる実験的な表現はあまりに多岐にわたっています。2020年3月に上演中俳優が全くその場を動かない『氷と冬』を上演したかと思えば、その次の作品として2020年8月に発表された『フィジカル・カタルシス』はほとんどダンスに近い舞台でした。ここでは、その舞台のドキュメンタリー演劇的側面を特に論じることにします。
ドキュメンタリー演劇は、もともとは虚構性を薄めて客観性を高めた政治劇を指して用いられた言葉でした。けれどもドキュメンタリーの概念や社会状況がうつろうにつれ、その意味は大きな広がりを見せます。フィクションをドキュメンタリーの形式で表現する(モキュメンタリー)ことにより、現代社会での現実と虚構の境界の複雑さそれ自体を扱うことができるようになったのです。このような舞台では、俳優は自分のことを観客に向かって伝達します。それはしばしば、政治や社会から隔絶されているかのようにごく私的で個人的な、ささやかな日常の風景を掬い取るような形をとります。ドラマ性やリアリティの大小は作品によって大きく異なりますが、観客からしてみれば、そこで発された言葉の真偽を確かめることはできません。
スペースノットブランクは、出演者と演出家が共同してテクストを構築する独自のプロセスが創作の要となっています。それは、俳優の生活雑感から、その場で紡ぐフィクションまで種々様々です。それにしても、このようにごく個人的な記憶から舞台がつくられていくのは、なぜなのでしょうか?

ハンス=ティース・レーマン『ポストドラマ演劇』は、20世紀の演劇の展開を虚構(フィクション)から状況(シチュエーション)への移行として概括したうえで、場面外対話としての独白(モノローグ)を今日の演劇の特色の一つとして掲げています。もう少しかみ砕いて説明しましょう。
通常舞台にはふた通りのコミュニケーションが存在しています。ひとつは、物語内で俳優が演じる登場人物たちの間で交わされる対話。そしてもうひとつが、俳優と観客同士の間で交わされる対話です。上演行為が戯曲──テクストの単なる再現表象を離れるにつれ、前者の場面内対話よりも後者の場面外対話のほうが前景化します。
普通は上演中に観客が口を開くことはありませんから、後者のコミュニケーションを想定することは一見不自然なようですが、実際には視線、集中の気配、表情、そうしたものを受け取りながら俳優は日々演技をしているものです。これは、俳優がより良い演技を提供すればするほど、基本的に観客も集中や反応の程度を高め、それが俳優の演じやすさに作用するような循環的な過程です。もちろん、その逆も然りです。舞台と客席の間のこのような複雑で相互的なやりとりのありようを、ここでは広い意味で「対話」と呼ぶことにしましょう。
現代演劇におけるモノローグは、登場人物同士のやりとりから身を引き離すことで、観客との相互的な場を生成させる企てといえます(レーマンはこうしたモノローグを、通常の独白から特に区別する意味で「モノロギー」と名づけています)。現代演劇は物語がもたらす感動ばかりでなく、双方向的な参与を通じた場の豊かさそれ自体、すなわちイヴェント性や出来事性をも志向しているのです。

『ラブ・ダイアローグ・ナウ』はダイアローグ(対話)という言葉をタイトルに冠しながらもそのほとんどがモノローグによって構成されています。しかしそれがモノロギーであるとすれば、モノローグが同時にダイアローグでもあるような、この作品の特異な構造がわかりやすくなるかと思います。
ところで、独白とはきわめて内省的な形式の言葉です。紡がれる言葉はまずもって俳優独自の身体から発された固有の言語です。そうした語りが、ほとんど匿名的な抽象性の中に溶解してゆくのがスペースノットブランクのクリエーションです。
スペースノットブランクの舞台では、ある人の言葉が別の誰かに受け渡されます。今回、豊岡、静岡では古賀友樹さんと札内茜梨さんが出演なさいますが、鳥取では演出の小野さんと中澤さんが出演します。そのときは古賀さんと札内さんが演じていた言葉を、小野さんと中澤さんが口にすることになります。それから、ラブ・ダイアローグ・ナウはすでに三度形を変えて上演されています。今回のテクストは過去のどの公演とも異なる内容ではありますが、いくつかの言葉は今回にも引き継がれています。ですからいずれにせよ出演者は、自分のものでない言葉をしゃべることになるわけですが、これは役を演じるといういわゆる「演技」とはまた違ったレベルで、手渡された他者の言葉に出会うことだと言えます。
そして、フィクションを交えた語りは、自分の言葉でありながら自分の言葉でない、別様でありえた可能性としての自分の言葉です。さらに、そうしてつくられた独り語りは巧みに編集されて、時に相手の言葉と響き合い、時に相手の言葉と分け持たれ、時に相手の言葉に奪い去られてゆきます。
このように、俳優から見ればいくつもの「他人」と──観客と、他の俳優と、そしていつかのどこかの知らない自分と──「自分」の言葉が「出会う」ところに成立しているのが、『ラブ・ダイアローグ・ナウ』なのです。

稽古場での言葉が上演されるということは、以前の公演も含め、作品のたどってきた過去の記憶が、上演の一時間に凝縮されるということでもあります。もっとも、これは実は舞台芸術一般の性格でもあります。舞台に載せられる言葉は、幾日もの稽古での反復によって研鑽され、そうした時間の重みを抱えながら、しかし観客にまなざされて舞台の今を生きる、不思議な言葉なのです。
そして、様々な人々の様々な記憶をコラージュして作られるスペースノットブランクの舞台は、多様な解釈を許容するものです。作り手の伝えたい「正解」のメッセージがなにかあるわけではありません。それぞれの人が、それぞれの仕方で舞台を経験するのです。
そうして持ち帰られた舞台の言葉やイメージは、時に新しい記憶や解釈と結びついてゆくはずです。わたくし自身、彼らの過去の舞台と終演後に新鮮な「出会い」を果たすことがしばしばです。
こうしてさまざまな記憶や時間がひとつところに折り重ねられながらうつろいゆくのがスペースノットブランクの舞台です。豊岡、静岡、鳥取といういくつもの場所を旅する『ラブ・ダイアローグ・ナウ』では、遠い広がりを持つこれまでとこれからが、他の姿でありえる(た)可能性を大いに秘めながら、それぞれの場所と、それぞれのあなたと、それぞれの現在で「対話」することでしょう。モノロギーたちが「出会う」のは、このような「出来事」の地平なのです。


ラブ・ダイアローグ・ナウ|作品概要

フィジカル・カタルシス|植村朔也:イントロダクション

植村朔也 うえむら・さくや
大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。


  「カタルシス」という言葉はアリストテレスがその著作『詩学』で悲劇の本質として掲げたものですが、この概念の意味するところについては実はあまりはっきりとしていないようです。悲劇の扱う「憐れみ」や「畏れ」を「浄化」するものであるという理解が一般的なようですが、その解釈もどうやら問題含みであるらしく、そんな難解な語を今日誰もがカジュアルに用いているのはなんだか奇妙なものです。
 この芸術論がわれわれを驚かせるのは、感性を重んずる近代以降の美学の伝統に反して、そこで追求される「美しいもの」がまったく理知的に理解されていることです。悲劇において最も本質的であるのはストーリーであって、場合によってはそれを上演する必要すらないのだとアリストテレスは主張するのです。カオティックで陰惨な状況をロジカルに線型的なドラマへと収斂させていく認知のプロセスこそが重要とされ、視覚効果や音楽、俳優の演技から受ける感動はまったく副次的な産物であるとしてほとんど顧慮されません。
 すると悲劇の本質たる「カタルシス」は、この「「ダンス」と「身体」そして「動き」についての舞台作品」にあてがわれる言葉としてはなおのこと不釣り合いであるように思われます。

 フィジカル・カタルシスはスペースノットブランクが昨年から始動した作品で、1年の内に4度にわたり上演されました。私は1月のd-倉庫、12月の穂の国とよはし芸術劇場PLATには惜しくも足を運ぶことはできませんでしたが、3月の青山スパイラルホール、それからシアター・バビロンの流れのほとりにて、という奇妙な名前の小劇場での5月の上演には立ち会っています。毎公演ごとに内容は一から作り直されるため、一度として同じ内容の公演はありません。
 もう何度か今回の稽古場に足を運ばせていただきましたが、基本的なコンセプトはこれまでの公演から大きく外れてはいないようです。5つのフェーズから成り、展開される動きは出演者が自ら振り付ける。演出の小野さん・中澤さんは、出演者が動きを考える元となる簡単なタスク(中澤さんの言葉で言えば、試練)を設定して、そこから生まれてきた動きを編集することに専心しています。
 演出家が振り付けを行わないのは奇妙なようですが、このような編集モデルはすでに一定の潮流を形成したものです。伝統的なダンスの作家主義を解体し、素材として用意された既成の動きを遊戯的に構成する新たな作家像がそこでは打ち出されています。ピナ・バウシュやウィリアム・フォーサイス、ジェローム・ベルといった作家からの影響については演出家が自ら認めるところでもあります。
 もっとも、振り付けも身体相互の種々の関係性から生成されたもので、出演者の自律性・主体性を盲目的に前提するものではありません。集合的で透明な構造と固有の身体との多重化を観るところにフィジカル・カタルシスの経験が成立します。

 先に「カタルシス」概念のダンスとの不和について述べました。ごく乱暴に言って、演劇を観る者は記号の充溢に対する認知に、ダンスを観るものは力動的なエネルギーの布置や現前する身体への感覚に、主に意識を向けるはずです。その意味で、フィジカル・カタルシスは演劇の知覚のモードをも積極的に許容します。動きは出演者らの間で反復され、共有され、攪乱され、綜合され、物理的な実在を超えたある種の象形文字として浮かび上がるようでもあり、こうして主体相互の関係性が舞台に立ち上がるような身体の「対話」を「認知」するプロセスが本作の根幹を成してもいるのです。
 また稽古で目立つのは、課された「試練」に耐えて息切れする出演者の姿です。パフォーマーに強い重圧や負荷がかかっているというわけではありませんが、それでもそこにあるのは優雅さへの洗練を欠いて、ささやかに「悲劇的」な受苦の身体です。とはいえ、この「試練」は快を伴う出演者自らの自発的な選択の連続によって達成されます。その身体の振る舞いはどこか朗らかで、ゲーム的です。そこでは、息切れする形而下的肉体とヴァーチャルなゲーム的身体とが二重化しているのです。
 ですが、ダンスでもありながら演劇でもある、タンツテアター的な作風の内にこの作品を数えることはできないでしょう。あくまで知覚のモードが演劇に接近するだけのことであって、舞台には「ドラマ」の断片さえも漂うことはない(はずである)からです。
 昨年5月のフィジカル・カタルシスは私がスペースノットブランクに本格的に夢中になるきっかけとなった作品でもあります。私はスペースノットブランクの特徴を脱色する還元的な前衛精神に見ています。昨年だけでも11作品という、生き急ぐかのような制作ペースで原初へ向かう後方への前進の精神です。
 越境という言葉は相互の領域とその境界のスタティックな関係性を含意しています。しかし本質的な越境は両者を揺るがさずにはおきません。出演者は必ずしもダンスの経験を持ってはいませんから、その身体から生ずるモーションは、長年かけて組織されたダンスのコードを離れて、「踊り」よりは「動き」と呼ぶのにふさわしいものです。ですからフィジカル・カタルシスがダンス・演劇という両者の性格を共に備えているとするのは誤りであって、作品が目指すのは両者を還元した先にある、より開けた「舞台」であるわけです。
 このゼロに向かう還元的な速度は終点を先取します。昨年5月のバージョンは首吊りによる自死を思わせるイメージで終幕しました。作品が論理的な関係構造への記号的な還元を含む限り、知覚のモードは身体とその動きを捨象する方向に傾きます。それでいて身体の多様の展開もまた、加速されれば熱力学的な死に向かいかねません。過度の飽和は無と同義です。フィジカル→語る→死す。
 昨年の私が惹かれたのもやはり彼らのこの遠心的な速度であったわけですが、否定性から成る「白」、この何でもない色は、たしかにこの世に受肉される限り澱みを含んで、まったく純粋な無色ではあり得ないと言います。しかし、空白でない空間(スペースノットブランク)――彼らのシニカルな眼は、すでにその終点の先、速度の先をも、捉え切ってしまっているかのようなのです。
 身体ある限り、還元と多様との往還、主知的な形而上的理念(カタルシス)と、形而下の感性的次元(フィジカル)との「越境」はどうやら止むことはないようです。前衛の果ての停止を超えて、スペースノットブランクが常に立ち止まることが無いのは、この生と死にあふれる夏が二度とは訪れないからです。


出演者インタビュー
花井瑠奈と古賀友樹
山口静と荒木知佳

イントロダクション
植村朔也


フィジカル・カタルシス|作品概要
フィジカル・カタルシス|ステートメント

フィジカル・カタルシス|山口静と荒木知佳:出演者インタビュー


山口静 やまぐち・しずか
ダンサー、振付家、ダンス講師。1990年4月12日生まれ。企画者として、自らダンサー、俳優、作家を集い作品を上演する『アトリエタキグチにて』などの公演を企画。ダンサー、振付家として、茶番主義!『白い馬の上で踊れ』、スペースノットブランク『フィジカル・カタルシス』などの作品や、中島トキコが手掛ける《POTTENBURN TOHKII》の展示イベントに参加している。

────上演に向けて
コロナの話になっちゃうんですけど、コロナで学校が休校になった時に(それは春だったけど)、私仕事柄公園に行くことがよくあって、で子供が外でやることないからバスケとかをしてるんですよ。それもなんか小学生とかじゃなくて、高校生の同級生みたいな、女の子も男の子も混ざって、もしかしたら同じ部活なのかもしれないけど、公園のバスケのゴールに向かってみんながこう、わちゃわちゃしているのを見て「なんて健全なんだろう」って思ったんです。暖かい春に外でバスケなんて。でもそれって、本来の姿というか、どうしても、こう、教育とかもそうだけど、頭でっかちだな、と思って。知識を得るっていうことと、身体を動かすっていうことと、心を満たしていくっていくっていうことは、多分、三つの、全部、バランスを取っていかないといけないと思うんだけど、でも、知識を入れることとかがやっぱり優先されるし、そういうことの方が目に見える成果があると思ってて、身体を動かすっていうことがいつも後回しになっちゃう。コロナの間もこんなに時間があったのに、じゃあ実際身体を動かしてる人ってそんないない。意識しないと、生活から身体を動かすってことはどうしても離れちゃうから、そういうことを、本来人は動くことが身体に適しているんじゃないか、って気持ちをこの稽古にいると思い出す。だから『フィジカル・カタルシス』のダンスって言われるものは、私の中ではダンサーのためのダンシングではないと思っていて、それこそ、あの、働く動作みたいなものを織り交ぜているぐらいの自然な動きの組み合わせだと思っていて、その中にダンスの楽しさを再認識できる。から、そういう身体とか、そう思っている人たちの身体を劇場で見てもらえたらいいな、って思ってます。

────ステートメントについて
・それは多様な選択ができるものとする。
強要されていない、っていう感覚はすごくある。求められていることに自分から寄っていく必要もないというか、自分の役割がこうなんじゃないかってゆうことが自分の選択よりも先行してしまうと、身体のリアリティがないと思っていて、だからこの身体が動きを出すっていう過程に於いて、他者からの干渉がないっていうのは、とっても強いというか、本来のその人の身体とか、アイデンティティの純度がもろに出てくるな、と思います。

・それは躰の内在と外在から構築される
難しい。自分がこう動きたいって思う衝動と、自分の目が実際に見てる景色。あとは、こう動いているだろう、って想像する力。がクリエーションの中に存在すると思ってて、動きを作る過程、多分、どれもある。こう見えてるんだろうなっていう自分の身体のフォームと、あとは、こうしたいっていう衝動から生まれたその外から見える姿を想像してない動きの組み合わせとか、ちぐはぐ感がこの創作の過程には点在してるかなっていう気がします。

・それは作家のためだけのものではない。
そこに足を運ぶ理由が自分の中にあるかどうかなのかなと思って。ひとりでやってるとちょっと離れちゃうかもしれないけど、自分が手を伸ばせる範囲で選択をしてしまうけど、だけど、ディレクターがいることで、自分が普段手を伸ばさないところ、得ようと思わないことに躊躇なく手を伸ばせる感覚があって、それは作家のためだけじゃなくて、多分演者にとっても必要なことだと思う。

────ダンスについて
私は、ダンスが特別になることの方が嫌なんです。どれだけの時間をかけたかとか、どれだけの技術を得られたかとか、どれだけキャリアがあるかっていうことと、そのダンスの良し悪しって違うと思っているから、結局は心に触れるかどうかだと思うんです。そう。だから、ダンサーが自分から身体とか動きを楽しめなくなったりとか、探さなくなったら、終わりかな、って思っていて、いかに自発的に、能動的に身体と動きに向き合う意識を持ち続けられるか、なのかな、って思うんだけど、そういうことを教えてくれた人はいなかった気がする。良い意味でも悪い意味でも整いすぎてると思っていて、顔が綺麗な人とか、身体が綺麗な人とか、技術がちゃんとある人みたいなので構成されるグループの「薄さ」というか、そのコントラストのなさっていうかな、「薄さ」というのにすごく悔しい想いをする時がある。もっとマッチョの人がいたりとか、痩せっぽちな人がいたりとか、その身体の強さとかダンスの強さって、技術のあるなしとか経験のあるなしじゃなくて、その人間性とか意思の強さとかだと思うから、そういうなんか寄せ集めのサーカスみたいなごちゃごちゃしたダンスカンパニーとかダンス作品があったら、もう少しダンスを楽しめたかもしれない。

────作品の中での自身の行為、役割、意識について
無責任かもしれないんですけど、前回(2019年)からメンバーとしては同じ作品を繋げているというか、継続して参加しているけど、あんまりこう自分の役割は意識していないし、前の作品をそんなに引きずってはいない、けど、確実に前回得た身体みたいなものがあって、それを別に再現するつもりはないけど、あ、これフィジカタの身体だみたいなのはあります。なんかその自分が見つけた身体が、現在もその感覚を持ってるってことがたぶん自分の役割な気がする。もし与えるなら。



荒木知佳 あらき・ちか
俳優。1995年7月18日生まれ。俳優として、FUKAIPRODUCE羽衣『愛死に』、歌舞伎女子大学『新版歌祭文に関する考察』、libido:『青い鳥』、スペースノットブランク『緑のカラー』『ラブ・ダイアローグ・ナウ』『舞台らしき舞台されど舞台』『すべては原子で満満ちている』『ウエア(原作:池田亮)』などの作品に参加している。

────上演に向けて
もうちょっと引き締めたい。稽古をしてて、すごくバスケ部の時の感覚に戻ることがよくあって、身体が、体重がほぼ小学校五年生くらいの時と同じ体重になってて、その頃の軽さとか疲れ具合がちょっと似てて今が。でも、小学校六年生が自分の最高に動ける身体だった気がするの。今、まだね、五年生なの。もうちょっと行ったら、六年生の最高の自分になれる気がするから、8月の本番までには、そこに行きたい。でもやっぱり実家だったし、毎日ご飯も出てくるし、朝ごはん、白いご飯に大好きないくらの醤油漬けとかかけて食べたり、美味しい、って。食に関して悩むことがなかったけど、今そこが自分ひとりだからどういう食生活で、その小六のベスト身体になれるか、がちょっとね、考え中。朝がね、食べれないのさ。バナナ一本とかになっちゃう。起きるのも遅いし。それをね、おにぎりとかにして、エネルギーをつけて稽古場に向かうってゆうことをしたい。あとね、バスケ部の身体になる、戻る、と、バスケ部の時の試合会場とかが急に思い出したりするの。はっ、て。ここで練習試合やったな、とか。みんなで差し入れのカロリーメイトめっちゃ食べてたな、とか。本当に会場が思い出されるの。見えるし、目に浮かぶぐらい。普通に過ごしててそういう現象がないから、稽古で汗かいて、ちょっと試合終わりじゃないけど、はぁ、ってなった時に、見える。試合会場。それがすごいから、本番も見たい。バスケ部のなんかの瞬間とかを思い出したりするんじゃないかなって思う。でも全部自分の身体でやってるし、動きたい動きをしてるから、嘘がないというか、ありのままの私を見てもらえるかなと思うし、四人のメンバーも良いんだよね。今日思ったのは、ゲーム、じゃないけど、四人、なんていうの、ゲームのキャラが居て、自分はどのキャラを選択して戦おうかな、っていう風に見れるな、って思って。お客さんが、AボタンBボタンを押して「あ、このキャラはこういう攻撃ができるんだ。」っていうのを、前半の方で確認します。そしたらだんだん「あ、このキャラで行こ。このキャラならボスを倒せる。」ってわかってくると思うので、そしたら、あなたがそのキャラになりきって、最後までゲームをしましょう。そしたら、終わります。この作品。きっと。まだね、最後までどうなるかはよくわかってないんだけど、きっとみんなでひとつのゲーム作品を作るんだと思う。動かしてるのは、あなたです。私でもあり、あなたでもあります。

────ステートメントについて
・それは多様な選択ができるものとする。
私的には、「選択」は、見るものかな、って思います。身体の一部を見る、でもいいし、全体を見る、でもいいし、目薄めて見る、でもいいし、自分がその動いている人の足許から見たら、どういう気持ちになるかなとか、自分が見る視点が選べるな、って思う。私がみんなの動きを見てて、よく思うこと。

・それは躰の内在と外在から構築される。
なんか、自分で振りを作ったりする時に、こう動きたいなって思うけど、動きたいなと思ってやってみたら、やっぱ手の形はこうがいいな、とか「内側から出てきたイメージ」と、「動いてみての形」みたいなのの一番自分の気持ちいいバランスを探してるような感じがして、こう見られたいからこういう動き、っていうよりかは、内面と外側の良いバランスでできてるな、って思う。

・それは作家のためだけのものではない。
作家ってなんだろうね。作家ってなんだろう。もし私が作家だったら。ああ、作家って言えないんじゃないかな。わかんないけど。作家ってなんだろ。他の影響から生まれるものもあるし、それを考えたら、共同制作かもしれないし、みんなで作ってるかもしれないし、ちょっと作家、は誰なんだろう。

────ダンスについて
私は、ノアダンススタジオに通ってたことがありました。大学一年生の頃に、友達とヒップホップ、「知佳ヒップホップやったら強そう。」って言われて、「あ、ちょっとやって見たいかも。」って思って、「二人でノアダンススタジオに通おう。」って言って、ヒップホップとか、そこで、すっごいたくさんのダンスのジャンルがあって、レッスンのコマを見たら、ジャズダンスとか、ヒップホップ、ロックダンス、で、ヨガも入ってて、バレエも入ってた。なんとなくそこに書いてあるレッスン内容は全部ダンスだと思ってる。ヨガもダンスだと思ってる。で、一番やって楽しかったのが、ヨガだったの。それは、呼吸が好きで、私書道もやってんだけど、書道とすごくね、似てるな、って思って。呼吸が大事だし、その日の自分の体調によって変わっていくとか。だから、「呼吸」が「ダンス」。だから、「生きてる人」はみんな「ダンス」。だと思う。なんでも。「ダンス」じゃないのは、ない。「書道」も「ダンス」。

────作品の中での自身の行為、役割、意識について
「反復キャラクター」みたいな。自分がね、好きなのかな、繰り返すこと。繰り返すからできるようになることもあるしね。反復するとね、汗が出てくる。絶対。身体は変わってるけど、やってることは、同じことを繰り返す。見えてた景色が歪んで見えてくるのが楽しいの。花井瑠奈さんは、基本上にいる。細くて、浮いてるか、溶けてるか。で、山口静さんは、強い気。地面の土の栄養を全部吸って、葉っぱを咲かせてる。緑のような。植物がただ呼吸してる「自然キャラ」。古賀友樹くんは、カメレオンタイプ。カメレオンキャラ。ちょっと何しでかすかわかんない。ワープとかできそうだよね。何にでもなれるしね。良いメンバーが集まって、良いと思う。ひとつの村のような作品です。


出演者インタビュー
花井瑠奈と古賀友樹
山口静と荒木知佳

イントロダクション
植村朔也


フィジカル・カタルシス|作品概要
フィジカル・カタルシス|ステートメント

フィジカル・カタルシス|花井瑠奈と古賀友樹:出演者インタビュー


花井瑠奈 はない・るな
パフォーマー。1991年8月26日生まれ。2014年から2019年までテーマパークにてさまざまなプログラムに出演。パフォーマーとして、中村蓉『桜ノ森ノ満開ノ下デ』、サカサマナコ『静かな欠片』、新聞家『失恋』『遺影』『フードコート』、鳥公園『終わりにする、一人と一人が丘』、ひび『ひびの、A to Z』『ひびの、A to Z ~夜汽車のゆくえ!ver.』、ルサンチカ『鞄(作:安部公房)』、スペースノットブランク『ネイティブ』『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』『フィジカル・カタルシス』などの作品に参加している。

────上演に向けて
こんな時期ですが、もし見てもらえたら嬉しいなと思います。2019年に『フィジカル・カタルシス』をやっておりまして、3月と5月と、ちょっとだけ12月の『フィジカル・カタルシス』を経て、2020年の8月の『フィジカル・カタルシス』が生まれつつあるのが、今楽しいです。去年と人が違うので、それが最大の違いで、自分の取り組む内容だったり、方針だったりみたいなことはすごく大きく変わってはないような感じがするんですけど、一緒に居る人が違うっていうのが、かなり影響の強いこととして制作の中身に関わっていると思うので。あと去年とは社会の状況とかが大きく違ったりっていうこともありつつ、上演で起きることが定まっていくんだろうな、と思います。作品の中身についても言いたいこと色々あるけど、見る方がいいので、言うのやめます。このリハーサルが始まるまで、あんまり恒常的に外出していなかったので、なんか『フィジカル・カタルシス』が自分の中でのコロナ前と後の境目の線みたいな感じになっていて、だからなんだっていうわけじゃないんですけど、でも身体のことを扱っている作品でもあるし、なんか健康だったり、健康に生活することとか、健康な日々を重ねていくみたいなことがもしかしたら2020年版の自分の裏テーマみたいな物かな、と思います。リハーサルが始まって、リハーサル内のことじゃないんですけど、すごく印象的なことがあって、それは何かが起きたっていうわけじゃないんだけど、あと多分その自分の体調の周期みたいなこととかも関係がある内容です。内容は、あの、リハーサルの帰り道に、ときどき元気だったり、天気が良かったりすると、歩く場所を多くして帰るんですね。例えば、公園を歩いて別の駅から電車に乗ったりとか、家までの道でいつもより多く歩く道をチョイスする、みたいにしているんですけど、ある時すごく天気が良くて、風とかもいい感じの時に、視界に入ってくる緑色がめちゃめちゃ綺麗な時があって、でもそれは天候だけじゃなくて、絶対に緑色が鮮やかに見える身体の状態だったと思うんですよ。そういう「できあがった」みたいな状態を体感したのがすごく久しぶりに思って、すごいいい気分でした。これは、リハーサル二日目頃です。

────ステートメントについて
・それは多様な選択ができるものとする。
自分のやることとか、自分以外もか、なんでも選べる。ルールがないようで結構あるけど、でもそのルールはきっかけとしてあって、実際にどのぐらい何のルールに則るのか、とかも選ぶ必要がある。

・それは躰の内在と外在から構築される。
たぶん去年と同じこと言っちゃうかもしれない。もしかしたら。自分の中から、自分の考えとか身体の性質とかに則って出てくる要素と、人がいることとか、物があることとかに影響を受けたり、何か反応せざるを得なくなったりして、出てくる要素。

・それは作家のためだけのものではない。
まず、作る人々が居て、それで見る人々が居ることが想定されて、作られているわけなんですけど。さらにそれよりも外側に人々が居て、人以外も居て、とかまで含めると、自分一人がひとつの作品の中で身体を動かしていることはかなり些細なことに思えるんですが、でもそのことがさっき言ったような外の外の人とか、人以外とかに、どこかしらで共通点を持って繋がっていること。

────ダンスについて
私は、自分がダンスをしている人ではないと言い張ってここまできたんですけど、もしかしたら一般的な意味でダンスをしてきた気がしてきました。なんでかはちょっとわかんなくて、多分思うに、ひとつには、去年は仕事をやめたばかりで、仕事をしてる時は周りの人がある程度はダンスをしてきたみたいな人ばかりの環境に居て、なので去年は多分、私はダンスをしてる人ではありませんみたいな感じで話したんじゃないかな、と思うんですけど、今考えると、今はもっとたくさんの人と関わる機会が増えて、私はダンスしてたな、って気がしてきたっていうことと、もうひとつは、この作品について考えると、今回荒木知佳さんとか、古賀友樹くんとは、初めて一緒に『フィジカル・カタルシス』を作っているんですけど、その中で二人の身体は、かなり見たことのない動き方とかをする。っていうことを思って。多分それも一因として、私は自分が思っているよりも、ダンスについて見聞きしてきたし、ダンスをしたことがあって(ダンスの言葉の意味については一旦置いておくんですけど、本当は誰でもできるし、技術だけが必要なものじゃないから一旦置いておくんですけど、置いといて)、いわゆるダンス的なものに触れてきていたんだなっていうことがわかってきた。

────作品の中での自身の行為、役割、意識について
今回は、前回までの『フィジカル・カタルシス』で自分が行なっていたような行為とか、意識とは明確に違う要素があります。でも、内容に触れたくないので言えません。



古賀友樹 こが・ゆうき
俳優。1993年9月30日生まれ。《プリッシマ》所属。俳優として、ゆうめい『みんな』『弟兄』『巛』、劇団献身『最悪な大人』『幕張の憶測』『死にたい夜の外伝』、シラカン『蜜をそ削ぐ』、スペースノットブランク『緑のカラー』『ネイティブ』『舞台らしき舞台されど舞台』『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』『すべては原子で満満ちている』『ささやかなさ(作:松原俊太郎)』『氷と冬』などの作品に参加している。

────上演に向けて
とにかく、今回の作品に限らず、すべては通過点であるということ。通過点であり、到達点である。それは作品としてもだし、僕ら一個人としてそれぞれが持ち寄れるその日の到達点。だから、もしかしたら次の日になれば全く違うものができあがってる可能性がある。言い過ぎかもしれないけどその余りの部分が、必ず存在する作り方をしていると思う。多分上演ではその部分には気付けないと思うけど、なんとなく、「メニューにそういうのもあるんだな」ぐらいに覚えておいてくれたら。裏メニューもある、ってことで。さらに僕としては、より日常をベースにしたいと考えていて、それは、歩くように、自転車を漕ぐように、バスに乗るように、それくらい日常に近付けることができたら、より理想の形。でも、ひとつフィルターをかけると、そうは見えない。けどそんなもんは大体なんでもそうだから、そこは諦めて、「僕はそういう考え方でやってます」って言う。もしかしたら他の出演する人々とか、関わってる人たちは、今までにない自分を見せようっていう人がいるかもしれなくて、それはそれですごく良くて、一番大事なのは「調和」ですから。「ハーモニー」ですか。調和が取れていると美しいんですよ。僕は、バキバキに動けるわけではない。そこそこ動けるくらいの人なので、バキバキは、バキバキに任せて、そこそこは、そこそこ見せればいいんですよ。悪い風に捉えないでください。バランスがね、取れていれば万事オッケー。料理と一緒ですよ。誰かが、作品を料理に例えるっていうのがある、みたいなことを言ってた気がします。今回の作品は、料理に例えると、そうですね。「ポタージュ」かな。いっぱい具材が煮込まれて、ほぼ具が見えなくなった「ポタージュ」。今現在はね。もしかしたら明日には「北京ダック」になってるかもしれないけど、今日の感じは「ポタージュ」。

────ステートメントについて
・それは多様な選択ができるものとする。
日々生きていると、色んな出来事を色んなバリエーションで解決するっていうことがあると思うんですね。僕はよくあるんですけど。道でよろよろ歩いているおじさんが居て、注視して歩く、とか。何か考え事をしているフリをして歩く、とか。無視して歩く、とか。戦いを挑む、とか。そういう選択肢が実はあって、常に何かを選択し続けていて、僕はよく、車道に飛び込むんじゃないか、って自分で思いますよ。『GANTZ』の見過ぎですかね。でも、本当思うんですよ。だからきっとこの言葉は僕らにも当てはまるし、お客さんにも当てはまる。もし途中で「外の空気を吸いたい」って、「もうやだ」って思ったら、外に、全然出てもらっていいと思います。僕も「もうやだ」って思ったら、全然外行くんで。一個一個は結構色んなことの「奇跡」が積み重なってるんで、その「奇跡」が、可能であれば、ずっと続けばいいかな、って思いますよ。

・それは躰の内在と外在から構築される。
まず「それ」って何なのかっていう話なんですけど、身体の内在と外在にあるもの。今パッと思いつくのは「魂」ですね。僕は、魂がどこに行くのかということを一ヶ月に一回くらい考えるんですけど、あの、小学校の時に「質量保存の法則」っていうのがあったんですよ。今もバリバリ現役ですけど。生き物が死ぬと少しだけ軽くなる、って話ありますよね。ね、あれ、魂じゃないか、って何かで見たか読んだか聞いたんですよ。で、その時に結構しっくりきたんですね、自分の中で。だから、その何グラムか、は魂で、本当にどこかに抜け出て行ってしまう。科学的に検証できないものだけど、そういう、なんだろう、この、チャクラか。気の力はあるんじゃないかって薄々、小さい頃から気付いてたんですけど、そのことをこれは言ってるんですよ。間違いありません。

・それは作家のためだけのものではない。
これは、その通りですよ。ただ、「作家」とは誰のことを指すか、っていう。これ、ミスリードなんですけど、これはスペースノットブランクのことでもあり、パフォーマンスをしている人たちのことでもあり、実は見ているあなたたちも、「作家」なんですよ、っていう話がありまして。夢を見る。「スリープ」の時ですね。あれを作っているのは誰か、っていう話を今思い付いたんで、自分の記憶を整理するために夢を見るってどこかで聞いたんですけど、あまりにもしっかりした物語の時があって、多分皆さんにもあると思うんですけど、あれって、ひとつの短いお話を見た感覚になりませんか。起きた時に。むしろ、感情が、わあ、ってなって、泣いたりとか、声出ちゃう時とかもあったりして、でもその夢を見るのに向き不向きというか、得意不得意があって、それはなんというか、才能もありますし、作る力だと思うんですね。構成力というか、自分の中でピースとピースを繋ぎ合わせる人が、夢を見る才能がある、と思っていて、で、夢は一旦ここで終わり。何かを見た時に物語性を感じたりとか、何か頭の中で音楽が流れてきましたとか、色が出たとか、文字が出たとか、それはまた違う脳の作りの話にもなってきますけど、要は「作家」なんですよ。今生きている皆さんは。伝わってるのかな。私「作家」。あなた「作家」。だから、ここに隔たりを作ろうとすれば、簡単に隔たりを作れるし、僕とあなたが、ちゃんとピースを繋げば、簡単に繋がることができる。それを舞台上で再現できたらなあ、と思いますけど、とにかく、僕たちだけではなく、あなたは作家であり、ちゃんと自分の作ったものに誇りを持った方がいいっていうことを言いたかった。

────ダンスについて
ダンスは音楽が必ずあるものと、なんとなく思っていた。というのも学校とかで教えられる○○ダンスとか、ソーラン節とかは必ず音楽がかかっていて、ここのメロディでこれをやる、この形、っていうのが強くあって、めちゃくちゃ嫌いでした。でもその印象が変わってきたのは、高校とか大学とか、それこそ物事はもっと僕の知らない領域よりもいっぱいあるんだっていう。ダンスのことを詳しく勉強したわけではないんですけど、音楽にもロックがあって、テクノがあって、ニューウェーブがあるように、ダンスにも外で流れてる音楽に合わせて踊るのもあれば、内側で流れてる音楽に合わせてるのもある。結局、音楽とは切り離せなかったですけど、僕の中では。でも、何かBGMがかかってないにしろ、自分の呼吸とか、自分のリズムっていうのがそれぞれにはあって、それにしたがって動いてる人を見ると、心地いい気分になるな、って感じます。

────作品の中での自身の行為、役割、意識について
『フィジカル・カタルシス』と言いますが、『フィジカル・カタルシス』は僕のことです。いや、マジな話で、僕を見てれば大丈夫です。不安な人は、僕を見ておけば大丈夫です。っていうくらいに、今回一応出演者として四人の名前が載っていまして、その中のひとりが僕なんですけども、僕だけを見て、他三人見なくても『フィジカル・カタルシス』は楽しめます。でも、これは逆もそうで、僕を見なくても、他三人だけを見る、でもいいし、その中のひとりだけ見て、他の人を見ない、でもいけると思います。根拠はないけど、そんな気持ちするんですけど、いや、絶対他の人もそう思ってるはずだな。いやこれインタビューでしょ。絶対他の人同じこと言うよ。楽しみだな読むの。もうちょっと喋りますよ。何か特別なことはしないので、そんなハードルを上げないでください。刺激はあると思います。「発見をする人」より、「育てる人」の方が偉いと僕は思っていて、だからね、教育者ってのは偉いなって。これは脱線しましたけど、教育者ってのは、資格があれば教育者ってわけじゃなくて、一本筋がないと、成立しないと思うんですよ。言ってしまえば僕も教育者。僕を見てれば、生徒になれる。いやこれはマジでそう思っていて、そう言っても、おかしくないですよ。信憑性ないかな。届かねえなあ。よし、終わりにします。


出演者インタビュー
花井瑠奈と古賀友樹
山口静と荒木知佳

イントロダクション
植村朔也


フィジカル・カタルシス|作品概要
フィジカル・カタルシス|ステートメント

5月31日

地形を知るのも大事だな。って思うの 川を知った方がいいな。って 川をずうっと眺めてたりとか 住んでたのが近くだったから 住んでた川と、この川 って繋がってるんだなって思った時に、川って すごいな、って思って。

いちばん 人が多いところ。高いところ。そこが誰もいない町になりました。で、電気もなくなって ポツポツと 人が増え始めて 一気に、現れました 勃発が、争いが 起きました。人と、人が、出会ってなかったのに。

導入は とても静か で、なんだかちゃんとしているのか、していないのか、

まだちょっとよくわかってないけど 媒体 できてしまった というか、ある から。でもまだそれが好きじゃなくて、だから夢 というか、驚き 驚き が足りないのかもしれない

人が重なり、みんな 個人が個人 と、いうものを持ったことによって 自分を知ったことによって 相手との距離が、わからなく なりました。そして

建物はみんな崩れてる。平らな道、になってます。真っ平ら、な道。部屋みたいな感じ。部屋みたいな感じ。

はじめまして 今から話をします。

具体的に は決めてません。

ニュースとか見てると 実感がない、というか 入ってきますよ。耳にした、目にしたニュースのほとんどは 数字 が書いてありました。

具体的には決めてない。

十四

決めてないっていうのが結論ではある。

二十

結論の手前で、日々 ちょっと ずつ、これから 少し ずつ、達成していきたい。

四十

ことっていうのが、日々 の生活の中 レベルであるから、それを一個一個やって行こう、って思って

まず、一、二ヶ月くらい、で、元に戻ろうと努力するでしょうし 順応しようと努力すると思います。

この部屋で、この椅子に座って、これが、自分自身が、勝手に楽しくなったりしていること。

でもそうは問屋がなんちゃら、みたいな 言葉があるように、ニッポン には結界がはられてると言われておりますが 結界なんてはられておりませんから。

この何もない時間でたくさんのことが、できたから。願望があって なんだけど 原動力がまだない。

無意味なことに価値がつく。

嬉しい時には ピンク、悲しい気持ちの時には 青、お腹が空いてる時は 黄色。

何してるんだろう

ルームシェア という体の引きこもり 隣人の存在、存在を意識 すると部屋に閉じこもる。別に嫌いじゃないんですよ。そこだけはわかって欲しい。

人間 だけど、人間じゃない。細かなフェーズ というか、

差別 差別 差別 差別 差別しかないじゃないか、っていう話ですけど、それがなくなって ゼロ になってると信じたい。だからこそ無意味なことが流行っているはず。その片鱗はね、最近もあったんですよ。覚えてますか。そう ハンドスピナー です。意味ないでしょ。

意味のないことに意味を見出す。すごくいいことじゃないですか だって、こんなに意味のあることだよ、って声をあげているにもかかわらず 返事をしたのかしてないのかもわからないような流され方をしてきてる。色んなことが ね。

だから、みんな 低い。全部一階建ての家。シェアハウスがなくなります。シェアはしません

SFがSFではなくなった。

朝はティファールで沸かしたお湯でアールグレイを飲む、という配信です。

可能になった。

悲しくなっちゃった

帰ることにしました。

具体的に は決めてません。

ま 無理か

で、そこからまた

これからのことなんて


5月31日の映像

※ご視聴の際は、イヤホン及びヘッドホンのご利用を推奨いたします。
※テキストを基に字幕を設定しております。


5月31日
6月7日
6月14日
6月21日
6月28日


本人たち|作品概要

6月28日

手で 触って 触れた 感じってやっぱ身に付けるものって特に重要だから、それはどう頑張っても無理だから、だからすごく惹かれる 可愛いな 欲しいな とか思うけど、触れるものは触れてから選びたい。

ワンルームだから、ツールームぐらいあったらいいのにな、とは思うけど。欲しい物は全部アマゾンが届けてくれる。プライムだからすぐ届いちゃう。近い距離に感じる、プライムになると、これをクリックすると、一日経つと、ドアの前に置かれてる。置いたらわかる。

古着屋さんを見て、ショーウィンドウの写真が載ってて、薄ピンク色の刺繍が入った可愛いブラウスと、ブルー系の涼しそうなロングスカートを飾ってるショーウィンドウ。自転車でも行けるから行ってもいいな、って思ったけど 値段が書かれてないからたぶんそんなに安くはないから買えるかわからない。行ってもいいかなあ って迷ってる。

それは今にはじまったことじゃなくて、ずっと。

RPGとかも、魔王を倒す とか、世界を平和にする っていうのが推進力になってる。物事を進めていく。だから 憑依する 感情移入する。だから要はごっこ遊びなわけで。ウイルスになるとしたら、地球の ウイルスである人間を壊滅させて よっしゃあ ってなる。感情移入して、やられてしまったら やられた 死にたくない 悲しい。ちょっと現実に置き換えると、感情移入する 点 を作ってあげないと人間ていうのは まるで他人事に考えてしまう。亡くなってから、本当に人って死ぬんだって思いました みたいな。

今の価値観で言ったら、死んでます。でも 細胞が一部分でも生きてたら、人間なんですよ。活動しているから。

たぶん生きてると思う、生きれてんのさ。でも大変なことになってる 子供が生まれなくなって 子供は生まれないけど 寿命を伸ばす努力をして だから 全然みんな歩けてます 歩ける。すごいね。若返りも当たり前になります。週一でホルモン入れますヒアルロン、歩く のは、脳と連動する機械を付けて、右行きたいな と思ったら体が勝手に右行ったりして。で、どこでもドア みたいなのも、できるから どっか行きたいな って思ったらすぐ飛んで行ける。世界 になってます。

この小指 小指の第一関節と 第二関節の 間 だけ、機械 とか。身体を機械化するのが流行ってる。オシャレ感覚で機械を入れちゃう。まだ全員チップは入り切ってない。首の後ろのチップを入れる技術はありますけど、それをやっているのは半分以下。

神様の視点というか、誰でもないけど、わんさかわんさかいて みたいな。

朝はだいたい 八時半から九時のあいだに起きます。八時半に絶対目覚ましをかけます。一回止めます。絶対に寝ます もう一回

普段しないような手間をかけるレベルでの料理をしたり とか、身体を動かして鍛えたり とか、書類を書くことがすごく多くて。イレギュラーなことをレギュラー化して生活してた。すごく元気 めちゃくちゃ健康 身体も大きくなった 厚みがね。あんまりわかんない。厚みね。

四十五分にもセットしてあります。四十五分なります。止めます。そこで ああ四十五分かあ って言って、カーテンを開けます。

やってることは全部 本能で やってることになって これ以外選べない ってなってるんじゃないかな、って思ったら もう まあ 運命 運命 っていうか決まってるある意味。もう こうならざるを得ない。だからこうなってる

例えば本を読むとか、明日やりたいこととか、いくつかあって、それをやるっていうことを選択していく、っていうことにしていこう、っていうのを決めました。後回しにしてたこと やるぞ、っていうことを決めました。トイレは毎日掃除していいな、って思って。物、出しっぱなしにしないようにしよう。食べたらすぐ洗い物しよう。料理を手間をかけて作る。疲れてるからやめとこうかな、って思わず、三分でいいからやろう、って思って。やったらやれたりするからしていきたい、と思ってる。

真面目さを出してしまうと不条理ネタがウケなくなるから、だから極力 人間味 というかそういうものを出さない。出してる人もいるけど、そういう人よりも、その人たちは、常人ではない。ばけもの なわけです。要は根を張ってるわけですね。だから、点数をより高く出したいわけですよ。発信して、人に認められたい、自己承認欲求を、少なからず満たしてるわけですよ。していいし、するべきだし、したくなかったらしなくていいし、ご飯と同じですよね。ご飯と一緒にしていいですよね。今日何食べました。とか。

ジャスティスを、ジャスティスを振りかざしてる。物悲しい、虚しい、やるせない、怒りを覚える。なんでだろうなあ

なんで お金とか あるんですか なんで こんなに元気 なのか なんで 豊か なのか なんか 不条理だ。

川と仲良くなる お友達になったら怖くなくなるかな、川の氾濫とかも。川を知った方がいい、ずっと思ってたの。思ってた の。川がずっと近くにあって、大きい川 だから、川遊びするような川じゃないんだけど、その川で遊んだりとか、川の堤防行ったりとか、川の科学館っていうのがあって、川の水流を調べられたりとか、氾濫したらこうなるよとか。川の科学館で遊ぼう。すごく思い入れが深いのは、川 と 川 だから、とりあえず友達は、川 と 川 だなと、

わかるようになってきた

ニュースの内容はなんでもいいのかも 村が沈もうが、焼かれようが。結局 なんのために 見てるんだろうな。

一時期ちょっと悲しくなった時もあって、出会える機能が 欲しい。

悲しい気持ちになるために かもしれないですね。悲しい気持ちになるために かもしれないですね。

自分のもの という意識が強く、これ は自分のもの ここ は自分のエリア ここ は私の居場所。ひとり、ひとり、が強くなり、我ら、俺ら、仲間だぜ みたいなヤンキーとか いなくなり、そういう集団性はなくなりました。だから、戦争は消え、戦争は、戦争も、なくなり、みんな ひとり で生きていける。能力を持つことができる。

悲しいことに、あの、死ぬ のはね。死ぬ ことが、難しくなっちゃうの。だから、もういいや って思ったら 脳味噌のボタンを押して、脳の機能を停止させたら 死ぬ ことができます。みんな機械 みんな、機械になっちゃう

ゆっくりメイクをはじめて、メイクが完成したら、お昼ご飯何作ろうかな お昼ご飯 の材料買ってきます。そして大体ちょっと疲れちゃうから 十時前とかかな、ベッドで一眠りして、家にある材料と作るものを決めて、よし この 材料を買おう、って決めてから服を着て、マスクをして いってきまーす。

左肩から先だけで働ける職場っていうのがあって、働きに行くわけじゃないですけど 左腕だけが働いている。

死んでます。でも 細胞が一部分でも生きてたら、人間なんですよ。活動しているから。報酬が家族に振り込まれる。全オンライン化した三菱UFJ銀行に振り込まれる。残念ながら脳は死んじゃったら使い物にならないので、リサイクルするしかないです。

左足が動いている 左手だけが動いている 半人間として人権が認められるようになるとか、ならないとか。左手にも人権を。右足にも人権を。腰から下だけの人。プラカードを骨盤に挿して歩いているのを見て ああ、時代だな って、娘が思う。手だけでも、顔は無くたって生きてるようには見えます。そういうのやってきたでしょ アニメーションの世界 は

居場所を作れるようにならないと、本当に 終わる ちょっと、念頭に置いてもらえたら な

タイミングがいまかいまかと見計らってる のがちょうど今、で あの あの感じに近いです。あの あのかかと落としで 対戦相手の耳を削ぎ落とした人 耳を削ぎ落とした時 みたいな感じで もう。じゃあ、違う、ええ バイオハザード。映画の方です。で、デストラップにかかってしまった兵士が、網目状に ピュン、ってなっちゃうじゃないですか。覚えてるかどうか微妙なラインですけど。ちょっと 力加えてみます。こわいなー どうしよ どうしよ いけてる いけてる これが 十グラムの バターケースでございます。それが今ですね


5月31日
6月7日
6月14日
6月21日
6月28日


本人たち|作品概要

6月21日

シンプル に続けることしかないっていう感じ。だし、やめないで、生き延びる ってこと。それだけな感じ。だから気持ちを強く 持って 持たなくてもいい、けど、それなりに気持ちを持って って感じかな。

なんで 髪切ったの

走ってた 走ったっていうか、半分歩いて 十七キロ。公園まで。走る 距離が、成果がわかる。距離が、伸びてくる っていうのが具体的にわかる。っていうのが達成感があるからおもしろい。外に、出ちゃえばいい。

具体的には決めてない。決めてないっていうのが結論ではある。結論の手前で、日々 ちょっと ずつ、これから 少し ずつ、達成していきたい。

アマゾンが燃えたり、異常気象が起きていたり、野生動物たちが 住む場所が、どんどんなくなって、人が住んでる場所に近くなって、関わりがなかった動物との関わりが近くなって、接触する。今まではコミュニティで止まってたけどグローバルになってしまってる 世界に。結局は人間とか虫とか生きてるもの。とにかく生きてるもの。一緒だけど、全部、一緒だけど、生きるために。生きる場所を探している。生きる場所を見つけている。生きる場所を奪っているから。因果応報なんですわ。

アンリミテッド。もう聴きまくり。

ちょっと血が止まっちゃう、みたいな感じ。

手元に置くなら、すごく気に入ったもの。やっぱりそれなりにお金もかけたもの の方がいいな、ってやっぱ思う。のね。最近特に。がんばって色々ちょこちょこ生活、し易かったり、気に入ったものを揃えてるけど、限界がある。狭いから。最近すごい素敵なお家の写真みたいなの、みたいなのを見て。URっていうのかなUR。広い家に住みたい。緑 が外にちゃんと見えるような。リビング 小さいテーブルが置けて。できたら バス トイレ 別。で、なんか気に入った 電球 つけて。人を呼んでもOKな お部屋 に。ここじゃあちょっと無理だ。ひとりでね、住むにはOKだけど。人は呼んでもいいけど。だからもうここには物を増やさない。もうこれ以上は。うん そうね そう だから アマゾン では買わない。

十七キロがこれくらいだってわかってると、漠然としてた距離が具体的に感じられる。川が多い。家の周りには、川 と 川 と 川 もう 川を制する、三本の川を走った。来年はマラソン走るぞ。

歩いて三分ぐらいのところに川がある。川まで出たら、ずっと川に沿って走っていく。と

すごいリスペクトしてるランナーのお姉さんにランニング以外にも使える素晴らしい商品を教えていただき。通気性はいいし、柔らかいし、それを履いて。上はなんでもいい。キャップをかぶって、サンガードにメガネして、見た目犯罪者なんだけど、家を出ます。

家を出て、川までまず向かいます。靴を履いて行く。川に途中の近所に高級老人ホームがデカくて綺麗。大きなお家が多くて高級いい感じの閑静な住宅街を通って川までまず。軽く 走って 歩き 走り の 間のジョギング。そう、その、まあ、一番しんどくないペースで。走り出して走るのに重要なのは速く走ることではなくてゆっくりでいいから長く走ることが重要なんだ。っていうこと。例えなら うさぎとかめ の物語。うさぎさんすごい速いんだけど、結局ゼーハーゼーハー、ゆっくりのかめさんに追い抜かれる。これは人生も同じだと思うんだけど。しんどくないペースで走る。走り続けられるペースっていうのを見つけることが大切。ペースを少し速くしてしまうと長く走れない。長く ゆっくり 長く 走る 人生を たまに

何してるんだろう

新居の、住み心地 どう

負けないで、もう少し。とか、そういうこと 最後まで、うん。走り抜けて、どんなに離れてても、心は

帰ることにしました。公園をゆっくり一周して、なるべくメートルに気をつけながら。歩いてる人は割と居て、ベンチとか遊具にはロープが張ってある。池に、溜まってる花びらがすごい綺麗で 写真を 撮りました。しばらく歩いて行くと、公園の、川の、端っこに出ます。駅を、坂を登るような道を 逸れて、進むと、公園の入口の反対側に。一瞬ここが公園なのかわからない感じで、だだっ広い 広場 みたいなところを通るんだけど、ちょっと川沿いはもう走れなくて、歩いて公園にも行けるから、そっちの道もすごくいい。とても可愛らしいランチのお店を発見して、そこにも行きたい。駅から川に戻って、川沿いをまっすぐ走って行くと、駅前に着きます。そこそこ栄えてて、スーパーがあったり、で、ちょうど 同じ 距離だから、あと少しっていう感覚で、駅にもお気に入りのベーグル屋さんが、あります。ベーグル買って川沿いで食べてみた、みたいなこともやったりしました。しばらく行くと、駅前に着く。また川に戻って、そのまままっすぐ、川沿いに走って、集合住宅の一階に、川沿いに、コーヒー屋さんがあって、そこはずっと開いてて、入らなかったけど 入ってみたい。そろそろ行ってみようかな、って思って。また川に戻って、ゆっくり走って行く。川沿いに、走って行く。と、まず駅前に出て、向かって左側に、川から左側 に逸れて、少し行った集合住宅の一階に、パン屋さんがすごく可愛くてお気に入り。バイト募集してたから電話したけど、バイトはできない。お気に入りの店だからよかったかな、って思って。駅に本屋さんがあって、お気に入りの本屋さんなんで、走ってそこまで行って、すごく本の並び方が見易かったり、小さいお店なんだけど。本 買った こともあります。

経緯

物資は送る けど どんどんもう住めない場所が増えて 技術はすごい発達してるんだけど もう住めない場所がすごい多くて そう その 少ない土地に住んでる人たち、外に住んでる人たち、っていうので分かれて、場所 とか関係 なく、

で、そこからまた川沿いをスタートする。信号。で、渡って、突き当たると大きい道路があって、駅まで、で、半分の距離。駅のすぐそばに素敵な八百屋さんがあって、そこは すごい いつもお気に入りで、いちご が二百五十円とかで売ってて、いちご を買って、あ、その前に、白い巨塔が見えるの。白い でっかい 巨塔が見えて、駅の近くにあるたぶんゴミ処理施設の塔。塔が見えなくなる瞬間があるのね、走ってて、一瞬、木々で、その、見えなくなってしばらくして、そうすると 突然 目の前にその白い巨塔が現れる。と、もうそこは駅。に着いている。走り易い町だ。公園もすごく大きくて、公園も近くにあるんだけど、お気に入りなのは、古墳。古墳じゃないか。昔そこに、縄文時代みたいな時から人が住んでた遺跡みたいなのがあるのね、そう、住んでた住居みたいなのが復元してあるんだけど、ちょっと小高い山みたいになってて、そこに行って、ありがとー、って木々たちにするんだけど、前は、前は、全然人がいなかったんだけど、最近はすごい子供とかが増えて人気が出てきてしまった。池みたいなのもあって、遊具もちょこっとあって、でもどちらかというと公園の方がだだっ広いから人気で、いつ行っても人がいなくて、行き場をなくした家族たちとか子供たちがそこに行くようになって、すごく人気が出てよかったね、って思いながら、横をまた走って行く。すごい綺麗なの、川って

アマゾンもいいけど、やっぱ、直接 見たい よね。


5月31日
6月7日
6月14日
6月21日
6月28日


本人たち|作品概要

6月14日

引越し たんですよ 三月末に。で、いまこちらがワンルーム なんですね。前と違うのは、隣人の存在 を感じないこと。隣人 というのは文字通り 隣人、お隣 さん 前はルームシェアを 形だけしてたわけ なんですね

この部屋にやってきた。

導入は とても静か で、なんだかちゃんとしているのか、していないのか、さっぱりわからない。まま、どんどんどんどん事態は深刻になっていって、それはもっと広い単位で。でもやっぱり 至るところ の 見てみると、人間らしい。っていうと、すごく聞こえがいいので 人間らしい って言うことにします。人間 らしい

ドアを、部屋のドアを 開いて 閉じて 中に入ると、一切横の音聞こえないんですよ。広々とした気持ちになる。部屋は狭いですけどね。ただ 縦には弱い。ああ 縦 じゃないな。2Dです。2D。見取り図です。どこを北にするかって問題もあります。とりあえず玄関のところの壁が薄い というよりは 音がよく聞こえる。よく 缶チューハイを開ける音がする。

直接的な関わりは断とうとしてるのに 犬を介してのコミュニケーションていうのが ここ にはありまして。発生する条件としましては 犬 と 犬 の散歩が かち合う。ことです。犬同士の 触れ合い が 飼い主同士の 触れ合い になって、さらに条件が整うと発動する、商店街の近くであるという こと。最後の条件。近くの店のおばちゃんがやってくる。そうすると、犬の数よりも人の数の方が多くなる。下で ちっちゃい ちっちゃい 犬 でかい犬いないですよ ほんと チワワみたいな ちっちゃい 犬 ちょこちょこちょこちょこ、ね。服着てますよもちろん、服着た チワワが わわわん て ちっちゃくじゃれあってる。犬たちの頭上で 飛び交ってる。そもそも商店街というものに対してマイナスイメージを持ってる人間でございまして。商店街は温床なんです。

入り口に空き缶入れがある。業者さんが持っていく用の黄色と青。の、黄色の方に ストロングチューハイ がめちゃくちゃ入ってる。毎回毎回パンパンになるまで ストロングチューハイ が入ってて、朝 六時、七時くらいになると プシュ、って音がする。窓際から プシュ、って音がする。

話すことに集中したいと思っている。だけど正直 バターのことが気がかりで、このバターを切る器具はめちゃくちゃ便利で 十グラム ずつにカットしてくれる。でも難しいのが ちょっと柔らかくないと 切れない。で、固すぎると 刃が折れてしまう。

アマゾン ていうくらいだから、とんでもない在庫量があるんでしょうね。だから一個一個の価格が安い商品とかいっぱいあるんです。洗顔料 シャンプー リンス とかの消耗品。最近買ったのは プロテイン。キッチンペーパー あと胃薬 バファリン。薬局の知恵よりもアマゾンの広大な土地が優っている。少し複雑というか、それはそれで便利だし 家のほとんどのものがアマゾン。ランプ 珪藻土 水を吸い取るマット タップ 三口の電源タップ 二箇所 突っ張り棒 全部アマゾン 半分以上アマゾン だからアマゾン由来のものがいっぱいあるんで、すごく便利な世の中になった。住み心地、今という時代の住み心地的には嫌なことも多いけど すっげえ楽。マジで。

ちょうどパソコンがありますんで、こちらを使っていきましょう。お待ちください。

パソコンがちょっと不調なもんで 検索します。

目線 誰

えーと レントゲンの記事と ブラジャーの記事しか出てこないです

国 誰

平均 ていうのが検索欄に出てきたんで ちょっと そちらも、

火を絶やさないように する。

おえっ ていうのが正しい カタカナで オ エ ちいさい ツ きもーい、とかでも おろろろろ、でもなく オエッ ちょっと話変わるんですけど 聞いてもらっていいですか

何年か前 おっきい地震がありまして そこまで うちは被害なかったんですけど、近くの家で完全に一軒まるごと潰れてたところがありました。教室に ある日 等身大バルーンみたいなのが届いた。

横並びというか、縦社会というか、縦の糸、横の糸 みたいな。そういうのが 苦手で すごく苦手で 流行は好きなんですけど、流行をつけたら恥ずかしいというか 大した話じゃないんですけど ね うーん なんか いいこと言いたいな。スパッ、と。切れ味鋭い。ここは時間を使っていいでしょう。今 認可が下りました。

元気ばい 変なキャラクター、元気ばい。ぶん殴ると こう なる感じ 元に 戻る感じのバルーン 変なバルーンあるなって思って、数日経ったら 校庭に集まって、みんなで写真撮影みたいなのがあって。後々知ったんですけど、それは、外の人に向けての 元気でやってます。元気ばいキャンペーン っていうキャンペーンの一環 の広報のものだったんですね。代弁されたんですよ。子供たちの声が 元気ばい って。まず ばい って使わないので その地域はそこまで。そこがすごく嫌だった。代弁されたこと 写したいところだけ写してるっていうところ じゃなくて、ばい って、言わないからっていうところ。元気ですよ 大丈夫ですよ っていう気持ちはないわけじゃない。でも勝手に大きい声で言われちゃうと、うっ、て思うわけですよ うっ、じゃなくて オエッ か。

前は二階に住んでて、今は一階だし、自転車のバッテリーも買ったし、豊か だから。心も 豊か だから。準備ができている状態。レディ って感じ RE、ね。マリオカートで あの雲のやつが吊るしてる。二番目まで点灯してる。感じ。ちょうど、ボタンを押すタイミングですよ

気持ち悪い


5月31日
6月7日
6月14日
6月21日
6月28日


本人たち|作品概要

6月7日

ベッドの位置を変えよう。部屋を綺麗にしなきゃダメだ。片付け してました。

物を 物を 出し、出す、整理して、まず置きたい位置に置きました。

新しい家に引越してきた みたいな気持ちになりました。すっごい便利なこのメイクケースとかも買っちゃったし、メイクケースとか これは、便利なの、もう。でね、メイク道具は綺麗に保たないと と思って、収納して。あと は あの 収納ボックスみたいなのをふたつぐらい買って、捨てるか、捨てないか、迷ってる、なんか昔。むかしの物。懐かしい物。むかしの写真とか、持ってきてて、この 部屋 に

似合う服とか あんまり見た目のこととか気にしなかったけど、合う服は なんなんだろう、とか 合う化粧は なんなんだろう、とか。考えないことを考えるようになりました。なんだろう、ね。見た目、とか。考えなかったことをすごい考えてる気、がする。服は 一緒に買い物行った時しか買わなかったんだけど

冬 冬、冬じゃない部屋着、部屋着もちょっと いつもだったら着ない物を着てみよう かな、とか。

ガーリーがいいよ。

オーバーサイズというか、ちょっとダボっとしてる感じが多くて、それが逆に太って見えるような感じにもなってんのかなと思って フィットな服も着てみたいな、とか、だからめっちゃお気に入りだった一番オーバーサイズな服を 売りました メルカリで 売れた 八千円で売れた 新しい服を買いたい

ガーリーだ ガーリーな服 ガーリーなメイク 研究して ガーリー なんだろう これがガーリーな服かな と思って一回着てみたんですよ。思う ガーリー なの、をね、絶対着ないようなやつを、で、そしたら鏡 試着して鏡 見たら ゲボ吐くと思って 気持ち悪くて気持ち悪いと思って やだー

どうしていったらいいのかは まだちょっとよくわかってないけど 媒体 できてしまった というか、ある から。でもまだそれが好きじゃなくて、あんまり好きになれてないというか疲れちゃうし でもそういう 媒体 のことをもうちょっと知らなきゃダメなのかな とも思ってきた 見たり。媒体 が増えていきそう。

髪の毛どうしよう どうしたらいいですか ね。この ロング、とショート、どっちがいいですか ね。

一番テンションの上がる髪で

顎が見えるから、ショートがいいんじゃない

なるほど ガーリーじゃないんだな テンション上がる服が着たいな、いいな って思う服。でもガーリーじゃないんだな

まず人件費削減のために 店長とバイト のひとりずつみたいになっちゃって、みんな削られて、学生も、みんな削られて。フリーターが優先されるんです でもみんな思うように入れなくなっちゃって、どうしようかな ってみんな悩んでたら、もしよかったらみんなで働かない って、そこにいるスタッフに みんなに宣伝をして、紹介カードというものを配って、毎日利用してる 三十秒ちょっとぐらいで着ける店舗と、二分ぐらいで着ける店舗のふたつあって、毎日行ってたし で すごい大変そうなの 品出しが間に合ってなくて いつも豆乳買うんだけど 豆乳が品出しされてなかったりして、この箱から取っていいですか、って言って箱から取る日々を送ってた

いらっしゃいませー、いらっしゃいませー すごいでっかい声で。

ひとまず千円、二千円、二千円と、あとの、三百五十円でございます。はい。

ひとまず千円、二千円、二千円と、あとの、三百五十円でございます。今日何時までですか。五時までです。って言われて 五時までか。ってなって。いらっしゃいませー 独特なんですよねイントネーション いらっしゃいませー ありがとーございます ありがとーございます。なんかねー かしこまりました ありがとーございます 当局からの厳しい指導を受けております。

当局ってなんですか

警察です。絶対 二回見なきゃいけない。二度 確認しないと絶対 ダメです 恐れ入ります、当局からの厳しい指導を受けております。

当局はなんですか、って訊かれたら

警察です、って答えます

五時に終わりました。頬骨の骨格を出すと小顔に見えるらしくって、だからロングでここを隠すよりも、ここを出してた方がいいんだって。で、ショートの方が気分があがるの。だから ショートがいいです。ショートがいいかも。ショートの方が、いいと思う。あ、毎日筋トレをしていました。昨日もやりました。そのおかげで、すごい痩せてて、外に出ると太っちゃう。

朝 ベッドが、枕が 窓に接するようにしたんです。だから朝起きてカーテン シャー、って開けたら ばー、って日差しが入ってくるの。だからそのおかげですごい毎日気持ちのいい目覚め。でも雨の日はどんよりしちゃうね。あれ 朝なのかな 起きれないね 雨だと

雨だとちょっと頭 ぼー、っとするな ず、っと眠いな 今日は

わかるようになってきた


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